歴史

戦国時代の有名な女性10選!その生活や活躍ぶりをわかりやすく紹介

戦国時代の主人公はやはり戦国武将なのでしょうが、そばで彼らを支えた女性たちがいたことも忘れてはいけませんよね。政略結婚が多数でしたが、彼女たちは夫に尽くし、時には戦乱に巻き込まれ、悲しい目に遭うこともありました。その一方で、女だてらに戦で采配を振るった人物も…!今回は、戦国時代を彩った女性たちの中から、印象的な女性をご紹介します。

1. 戦国一の美女・お市の方、時代に翻弄され続けた人生

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織田信長の妹として生まれたお市は、戦国一との誉れ高き美女だったと伝わっています。

当時、信長は美濃(岐阜県)の斎藤氏を支配下に置きたいと考えていましたが、そのためには近江(おうみ/滋賀県)の浅井氏の協力がぜひとも必要でした。そのため、浅井長政(あざいながまさ)に妹のお市を嫁がせ、姻戚関係を築こうとしたのです。

お市と長政は政略結婚でしたが、夫婦仲は良く、3人の娘(淀殿、初/はつ、江/ごう)に恵まれました。

1-1. 織田信長の妹として生まれ、浅井長政に嫁ぐ

織田信長の妹として生まれたお市は、戦国一との誉れ高き美女だったと伝わっています。

そんな彼女の結婚は、やはり政略結婚でした。

当時、信長は美濃(岐阜県)の斎藤氏をいずれは支配下に置きたいと考えていましたが、そのためには近江(おうみ/滋賀県)の浅井氏の協力がぜひとも必要でした。そのため、若き当主・浅井長政(あざいながまさ)に妹のお市を嫁がせ、姻戚関係を築こうとしたのです。

お市が長政のもとに嫁いだのは、永禄7(1564)年から永禄8(1565)年ごろとされています。政略結婚とはいえ夫婦仲は良く、3人の娘(淀殿、初/はつ、江/ごう)に恵まれました。

1-2. 夫が兄と敵対、そして永遠の別れ

ところが、信長が浅井氏ときわめて近しい関係だった朝倉氏を攻めたことで、織田・浅井の同盟関係は破綻してしまいます。その後、お市の夫・長政は姉川の戦いなどで信長と戦い、やがて本拠地の小谷城(おだにじょう/滋賀県長浜市)を攻められ、自害してしまうのです。お市とは10年にも満たない結婚生活でした。

そして、お市と娘たちは信長に助けられ、その庇護下で生活を送ることとなります。9年間ほど母子での生活となりましたが、この時がある意味いちばん穏やかな日々だったのかもしれません。

1-3. 兄の死と再婚、しかし運命は怪しい雲行きに

しかし天正101582)年、信長が本能寺の変で討たれてしまうと、お市たちの立場は微妙なものになってしまいました。そして、彼女は信長の重臣・柴田勝家(しばたかついえ)と再婚します。

これで安泰かと思われたお市の人生でしたが、再び悲劇が彼女を襲うことになりました。

お市が勝家に嫁いだ翌年、勝家と不仲だった秀吉との亀裂が決定的となり、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが起き、しかも勝家が敗れてしまったのです。

1-4. 秀吉に敗れた夫と運命を共にすることを選ぶ

勝家とお市の居城・北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井県福井市)は、炎に包まれました。今度は、お市は夫と運命を共にすることを選びます。一度目の結婚では共に死ぬことができなかった彼女は、もう二度と夫を見捨てることはできなかったのでしょう。

炎の中で彼女と勝家は自害し、城と共に灰塵に帰したのでした。

戦国時代に翻弄された悲劇の美女・お市の方。娘たちは脱出し、やがてそれぞれの道を選びます。しかし、長女の淀殿が母と同じ道を辿ることになったのは、やはり抗えない運命だったのでしょうか。

2. 会ったこともない許婚を思い続けた武田信玄の娘・松姫

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戦国時代の結婚はほとんどが政略結婚で、利害関係が決裂すれば離婚ということも珍しくありませんでした。しかし、ここでご紹介する松姫は、織田信長の嫡男・信忠(のぶただ)と婚約はしたものの、一度も会うことすらなく一生を終えた女性です。それでも彼女は許婚を思い続け、終生菩提を弔いました。彼女の一生はどんなものだったのか、ご紹介しましょう。

2-1. 武田と織田の政略結婚により、織田に嫁ぐことになる

松姫は、武田信玄の五女として生まれました。

この頃、武田信玄と織田信長は互いの息子と養女を結婚させて同盟関係を結んでいたのですが、この養女が亡くなってしまったため、両者は娘・松姫と息子・信忠を婚約させることにしたのです。

松姫は7歳、信忠は11歳と幼かったため、松姫はすぐに嫁がず、武田家で信忠の将来の正室を預かるという体裁になりました。

2-2. 婚約の破綻、しかし許婚の迎えを待ち続ける

松姫の父・武田信玄は、隣国・三河(愛知県東部)へと侵攻します。ここは徳川家康の領地であり、両者は三方原(みかたがはら)の戦いなどで激突することになりました。

これに際し、織田信長は武田と同様に同盟を結んでいた家康に援軍を送り、支援します。つまり、これで織田と武田の同盟は決裂となり、松姫と信忠の婚約もほぼなかったことになってしまったのです。

しかし、2人は手紙や贈り物のやり取りなどで心を通わせていました。このため、松姫はいつか信忠が迎えに来てくれると信じていたようです。

2-3. ついにやってきた許婚の迎え!

天正101582)年、織田信長は甲斐侵攻を行い、松姫の兄・勝頼(かつより)は敗れ、ついには自刃して武田家は滅亡してしまいます。信濃の高遠城(たかとおじょう/長野県伊那市)にいた松姫は、武蔵国多摩(東京都八王子市付近)へと逃れ、そこで密かに生活するようになりました。

そこへ、婚約を解消していたはずの信忠の使者が迎えに来たのです。信忠は松姫のことを忘れていなかったんですね。彼は正室を迎えずにおり、松姫を迎え入れることを考えていたようです。

2-4. もう少しで会えたはずが…許婚の死という悲報

ところが、この時京都では本能寺の変が起こりました。これで織田信長が討たれ、信忠も討死を遂げてしまったのです。

この報せを、松姫は彼の元に向かう途中で耳にしました。2人は結局、一度も会わずに永遠の別れを迎えてしまったのです。

悲しみに暮れた彼女は、武蔵国に戻り、22歳で出家して信松尼(しんしょうに)となって実家・武田家の一族と信忠の菩提を弔いました。父を失った姪たちを育て、時には寺子屋で子供たちに読み書きを教えながら、ひそやかな人生を送ったのです。

3. 幸せを掴んだかに見えたが…甥に惨殺されたおつやの方

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織田信長の叔母に当たるおつやの方は、織田・武田の政略結婚の犠牲者と言えるでしょう。夫亡き後、女城主となり城を守ろうとした彼女ですが、両者の争いに巻き込まれ、やがて悲劇的な最期を迎えることになりました。ある意味、信長の犠牲者とも言える彼女の人生を紐解いていきましょう。

3-1. 夫の死により、はからずも女城主となる

信長の叔母とは言っても、おつやの方は彼とほぼ同年代と考えられています。武田と織田のつなぎ役であった遠山景任(とおやまかげとう)に嫁ぎましたが、夫はすぐに病死してしまい、2人の間に子供は生まれませんでした。そこで、信長が自分の五男を遠山家の養子とし、おつやの方はその養母となり岩村城(岐阜県恵那市)主となったのです。

しかし、これには武田方が黙っていませんでした。織田方とみなされた岩村城は武田の軍勢に攻められ、おつやの方は敵将・秋山虎繁(あきやまとらしげ)に降伏したのです。

3-2. 敵からのプロポーズを受け入れるが、甥に攻め滅ぼされる

諸説ありますが、降伏したおつやの方に対し、秋山虎繁は求婚しました。彼女の養子となっている信長の五男に家督を譲るという条件も付けられていたそうで、おつやの方は虎繁のプロポーズを受け入れたのです。

ところが、織田信長は、おつやの方が武田方に裏切ったと激怒し、岩村城へと攻め込んできたのでした。虎繁は降伏しますが、信長は許す素振りを見せて彼を招き寄せ、やって来た彼を捕らえ、処刑してしまったのです。

そして信長の手はおつやの方にも及び、彼女は逆さ磔のうえ処刑されるという、むごい最期を遂げることになりました。

織田の家に生まれて嫁に行ったからには、織田のために尽くせというのが信長の考えだったのでしょう。しかし、困難を切り抜けるためのおつやの方の選択が、信長の意に沿わなかったに過ぎないと思います。夫を失くしてから懸命に生きた彼女が、再び得た伴侶を甥によって奪われたという悲劇、そして自身も処刑されるという結末は、戦国に翻弄された女性の悲劇というしかありません。

4. 戦国屈指のスーパーおばあちゃん・妙印尼

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戦国時代の女性が、常にか弱い存在だったのかといえばそうではありません。ここでご紹介する妙印尼(みょういんに)は、老境にさしかかってから後北条氏という強敵に対抗し、豊臣秀吉の小田原征伐にも兵を送って家の存続を成し遂げたスーパーおばあちゃんなのです。その強さ、本物ですよ。どんな女性だったのでしょうか。

4-1. 由良成繁に嫁ぎ、3人の息子に恵まれる

妙印尼は永正111514)年の生まれで、上野(こうずけ/群馬県)の新田金山城(にったかなやまじょう/群馬県太田市)主・由良成繁(ゆらなりしげ)の正室となりました。出家前の名は輝子(てるこ)というそうです。

成繁との間には3人の息子をもうけましたが、由良氏を取り巻く状況はなかなか厳しく、北からは上杉謙信、南からは後北条氏という強敵に挟まれていました。

そして、成繁が亡くなると、情勢はだんだんと変わっていくのです。

4-2. 息子を捕らえられた妙印尼、自ら兵を指揮して対抗

夫・成繁の跡を継いだのは、長男の国繁(くにしげ)でした。しかし彼は、後北条氏に謀られ、捕らえられてしまいます。そして、後北条氏の兵が城を取り囲んだのでした。

この時、城内にいた妙印尼は、なんと自ら兵を指揮し、後北条氏相手に戦いを始めたのです。この時71歳。当時としては超高齢です。「国繁を殺すぞ!」という敵の脅しに対して、大砲を撃ち込んで応えるなど、その辺の武将顔負けの戦いぶりでした。

4-3. お家存続のために小田原征伐に参戦

結局、開城して降伏することとなった妙印尼はじめ由良一族でしたが、天正181590)年に豊臣秀吉による後北条氏の征伐が始まると、妙印尼は一計を案じます。

息子・国繁はまたも後北条氏に拘束され、小田原城で後北条方として強制参加させられることになっていましため、妙印尼は、由良氏としての兵を豊臣方として参加させることにしました。こうすれば家は二分されますが、どちらが勝っても家が残るというわけです。そして秀吉が勝利を収めると、妙印尼の功績によって国繁におとがめはなく、彼女は領地を授かることができたのでした。妙印尼77歳の時でした。おそらく、秀吉は「あっぱれ!面白い婆さまだ」と思ったのでしょう。

その後、82歳の長寿を全うした妙印尼。人生の最終盤で多くの危機に直面しながらも、一家の大黒柱となって奮戦した強い女性でした。

5. 落ちぶれた夫に寄り添い続けた女性・早川殿

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戦国時代の女性は、嫁ぎ先が落ちぶれた場合、実家から呼び戻されることもあり、その後別のところに嫁入りすることも少なくありませんでした。しかし、ここでご紹介する早川殿(はやかわどの)は、落ちぶれた夫に終生寄り添い続けた愛情深い女性です。後北条氏の姫に生まれながら、夫と添い遂げる覚悟を決めた彼女の人生をご紹介しましょう。

5-1. 北条氏康の娘として生まれ、今川氏に嫁ぐ

早川殿は、後北条氏の当主・北条氏康の娘として誕生しました。

そして、天文231554)年に甲斐の武田信玄・相模の北条氏康・駿河の今川義元の間で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が成立すると、早川殿は今川義元の息子・氏真(うじざね)に嫁ぐことになったのです。

ところが、桶狭間の戦いで舅の今川義元が敗死すると、今川氏の運命は一転します。早川殿の夫・氏真は武将としては凡庸で、家臣たちの離反を止められず、武田氏の侵攻で領地を奪われてしまいました。そして、早川殿は夫と共に実家の後北条氏を頼ることにしたのです。

5-2. 今川氏が落ちぶれても、夫とは離婚しなかった

ところが、当主となっていた弟の北条氏政(ほうじょううじまさ)は武田氏と同盟を結び、氏真は領地を回復できなくなってしまいました。

創作とも言われていますが、氏政が武田氏による氏真への刺客を黙認したという話もあり、早川殿は激怒し、氏真と共に小田原を去ることになったのでした。一説に、の話ではありますが、早川殿が夫の身の安全を第一に考えていたことは言うまでもありません。

5-3. どこまでも夫についていき、生涯を共にした

2人は各地を転々とする生活を送ります。今川氏は足利将軍家に連なる血筋で、行く先々で邪険に扱われることは少なかったはずですが、落ちぶれた姿を晒すのは辛いことだったでしょう。それでも、早川殿は氏真のそばを離れることはありませんでした。結婚生活の中で四男一女をもうけ、2人の夫婦仲はきわめて良かったと考えられます。そして、徳川家康に保護され、江戸で平穏に暮らしました。

6. 母以上に戦国に翻弄された淀殿

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戦国時代の女性といえばまず誰もが思い浮かべるであろう女性が、淀殿(よどどの)ではないでしょうか。豊臣秀吉の側室となり、世継ぎ・秀頼を生み、権勢をほしいままにした彼女ですが、その人生は、母・お市以上に波乱に満ちたものでした。

6-1. 父と母を相次いで失う

近江の戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市の間に長女として生まれた淀殿。本当の名前は茶々(ちゃちゃ)というそうです。

両親の仲はきわめて良く、幸せな少女時代を過ごしたであろう淀殿ですが、それが一転したのは、父と伯父・信長の対立からでした。父・長政はやがて信長の前に敗れ、自害してしまったのです。

淀殿は母に連れられ、妹たちと織田家に身を寄せました。しかし伯父・信長が本能寺の変で死去すると、今度は母の再婚相手・柴田勝家のもとで暮らすこととなります。ところが、勝家は豊臣秀吉と対立して敗れ、滅んでしまうのです。母のお市もそれに従ったため、淀殿は妹たちと3人、頼る場所を失ってしまったのでした。

6-2. 秀吉の世継ぎを生み、権勢を誇るが…

しかしそこで淀殿たちを保護したのは、豊臣秀吉でした。やがて淀殿は秀吉の側室となり、待望の跡継ぎとなる秀頼を産みます。これによって彼女の地位は盤石なものとなり、秀吉の没後は幼い秀頼の後見として、絶大な権勢を誇ることとなるのです。

ところが、時代は秀頼にとって安泰ではありませんでした。徳川家康の勢いが増し、彼が天下を取るのではないかという雲行きになると、淀殿は息子を守るために必死となります。大坂の陣では、士気高揚のため秀頼の前線への出陣を願う武将たちの要請を拒んだという説も伝わりますね。しかし、敗色濃厚な状況は挽回できず、淀殿は息子や家臣たちと共に自害し、大阪城落城と運命を共にしたのでした。

7. 波乱の人生ながら最後に平穏を勝ち取った女性・江

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江(ごう)は、お市の娘であり淀殿の末の妹となる女性です。生まれた直後に父を亡くした彼女は、時代に翻弄され、夫との離縁や死別を繰り返すこととなります。しかし、最後に嫁いだ先で世継ぎを生み、押しも押されぬ地位を築きました。では、彼女の生涯をご紹介しましょう。

7-1. 生まれた年に父を亡くす

江は、浅井長政とお市の三女として生まれました。上の姉が淀殿です。

しかし、彼女が生まれた直後、父・長政は織田信長と対立し、滅ぼされてしまいます。生まれたばかりの江は母や姉たちと織田家に引き取られますが、父の顔を知らずに育っていきました。

その後、母の再婚相手・柴田勝家の暮らす北ノ庄城で過ごしますが、それも短い時間でした。勝家が秀吉に攻め滅ぼされると、江は姉たちと共に、母や義父の仇となる豊臣秀吉に引き取られるのです。

7-2. 3度の結婚を経て、ようやく平穏な暮らしを得る

浅井三姉妹の中で最も早く嫁いだのは、江でした。秀吉の命令によって佐治一成(さじかずなり)に11歳ほどで嫁いだのですが、その結婚生活は1年にも満たなかったようです。夫が秀吉の怒りを買ったために離縁になったとされており、それから彼女はまたしても秀吉の命令で秀吉の甥・秀勝(ひでかつ)と再婚することになったのでした。

ところが、秀勝は出陣した先で病没してしまい、またも江は独り身となってしまいます。そして再再婚したのが、徳川家康の息子・秀忠(ひでただ)でした。

ここでようやく江は平穏な生活を得ます。秀忠との間には千姫や家光(いえみつ)など2男5女を授かり、秀忠が江戸幕府2代将軍となると、その正室として、揺るぎない地位を築いたのでした。耐え忍んできた人生がようやく明るいものになった瞬間だったのです。

8. 戦国の「おんな城主」井伊直虎

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大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公となった井伊直虎(いいなおとら)は、名前は男性ですが、れっきとした女性です。井伊家を次々に襲う困難の前に、尼から還俗して家を守るために奮闘しました。謎に包まれた女性ですが、いったいどんな人物だったのでしょうか。

8-1. 許嫁と生き別れて尼となるも、災難が次々と家を襲う

井伊直虎は、井伊の総領家の娘として生まれました。しかし、父を戦で失い、許婚・井伊直親(いいなおちか)は実父が謀反の疑いをかけられたために逃亡・潜伏生活に入ってしまったため、彼女は若くして出家し、次郎法師(じろうほうし)と名乗ったそうです。

その後、直親は井伊家に戻ってきますが、すでに尼となった直虎とは結婚できませんでした。

それからも、災難は井伊家を襲います。直親は重臣・小野道好(おのみちよし)の讒言によって今川氏真に殺されてしまい、残されたのは、直親の幼い息子・直政(なおまさ)と尼の直虎だけでした。そこで直虎は尼から世俗へと戻り、ここで直虎という男性の名を名乗って、直政が成人するまでのつなぎの当主となることを決めたのです。

8-2. 男性の名を名乗り、当主として井伊家再興に力を尽くす

当主となった直虎ですが、重臣・小野道好の専横はきわまり、ついには本拠地・井伊谷城(いいのやじょう/静岡県浜松市)まで奪われてしまいます。井伊家は形骸化してしまいますが、それでも直虎は直政を守り、育て上げ、やがて徳川家康に引き合わせて仕官の道を拓くのです。そして、領地を回復した直虎は、直政が立派に成長したのを見届け、静かに世を去ったのでした。

許嫁とは結ばれず、一族の多くが非業の死を遂げ、一度は本拠地まで奪われた直虎。それでも諦めることなく戦い続けた彼女は、戦国時代の強い女性の象徴だと思います。

9. 秀吉に見初められた女傑・甲斐姫

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甲斐姫(かいひめ)は、「東国無双の美人」と称され、自ら武装して敵と戦った勇ましき戦国の姫です。その女傑ぶりはやがて天下人・豊臣秀吉の耳にも届き、彼女はその側室として召し抱えられることとなりました。では、彼女の強さをじっくりとご紹介しましょう。

9-1. 武芸に秀でた美しき姫君

甲斐姫は、忍城(おしじょう/埼玉県行田市)城主・成田氏長(なりたうじなが)の娘として生まれました。「東国無双の美人」と呼ばれるほどの美女でありながら、武芸にも秀でており、「男ならば成田氏中興の祖になったことだろう」と噂されたほどです。それもそのはず、彼女の祖母も母も女傑として有名だったそうですよ。その祖母は、この記事でもご紹介している妙印尼(みょういんに)。あの祖母にしてこの孫娘あり、というわけです。

時代は豊臣秀吉による後北条氏討滅のための小田原征伐が始まったころ。甲斐姫の父・成田氏長は後北条氏に属しており、忍城は秀吉軍のターゲットとなってしまいました。城攻めの総大将・石田三成は、忍城を水攻めすることにし、周りを水で満たしてしまったのです。

9-2. 兵を率いて豊臣勢を撃退

ちょうどこの時、運の悪いことに、甲斐姫の父・氏長は忍城にはおらず、小田原城に詰めていました。そのため、残されていたのは姫たち一族や家臣たちだけだったのです。加えて、城代を任された成田泰季(なりたやすすえ)は高齢のため、籠城戦のさなかに亡くなってしまいます。

絶体絶命のピンチに、甲斐姫は自ら戦うことを決断しました。甲冑を身に着け、名刀「浪切」を手にした彼女は、味方の兵を率いて出陣したのです。そして、彼女と彼女が指揮する兵たちは、豊臣勢を押し返し、忍城への侵入を防ぐことに成功しました。姫は敵将を数多く討ち取り、その後も幾度となく攻め寄せる豊臣勢を弓矢で撃退するなど、大活躍しました。

結局、後北条氏が降伏して小田原城が開城するまで、忍城は落城しませんでした。小田原開城の知らせに、甲斐姫らは開城を決断しますが、城を去る際にも武装したまま、堂々と去っていきました。

9-3. 武勇伝を見込まれて豊臣秀吉の側室となる

忍城退去後、蒲生氏郷(がもううじさと)のところに保護された甲斐姫たちですが、氏郷が出陣している隙に、留守役を命じられた新参の家臣が謀反し、甲斐姫たちのいる城に攻め込んできました。ここで多くの一族や家臣が殺されてしまうという悲劇が起きましたが、甲斐姫は怒り、反撃に転じます。わずか10数人で200以上の敵に挑み、謀反した家臣を討ったのです。

彼女の戦いぶりは、やがて天下人・豊臣秀吉の耳にも伝わりました。そして、秀吉は彼女を気に入り、側室として召し抱えたのです。甲斐姫の尽力により、父・氏長も領地を与えられ、成田氏は再興を果たしたのでした。

10. 逆賊の娘から将軍の乳母となった春日局

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春日局(かすがのつぼね)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母として有名な女性です。しかし彼女は幼くして父と死に別れ、その父が明智光秀に仕えていたことから、逆賊の娘となってしまいます。夫も浪人となり、苦しい生活を送っていた彼女が活路を見出したのが、家光の乳母となる道でした。では、彼女の生涯について見ていきましょう。

10-1. 明智光秀の重臣だった父が処刑される

春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘として生まれました。本来の名前は福(ふく)といいます。しかし、4歳のときに本能寺の変が起き、光秀が織田信長を倒したものの、すぐに豊臣秀吉に敗れ去ったため、父・利三も処刑されてしまいました。このため、彼女は逆賊の娘となってしまったのです。

しかし、母の実家である稲葉氏に引き取られ、その後は親戚筋に当たる京都の公家・三条氏のもとで教育を受けた彼女は、教養溢れる女性に成長していきました。

10-2. 落ちぶれる夫と家のため、将軍の子の乳母に応募

成長した春日局は、小早川秀秋(こばやかわひであき)の家老・稲葉正成(いなばまさなり)の後妻となります。正成は、主君・秀秋に対し、関ヶ原の戦いでの裏切りを説き、これが結果として徳川家康の東軍の大勝利につながるなど、なかなかできる男でした。しかし、秀秋と仲たがいしてしまい、秀秋が間もなく跡継ぎのないまま亡くなってしまったため、職を失い、浪人となってしまいました。

子供もいましたから、春日局はなんとかしてこの事態を切り抜けようと考えます、そこへちょうど飛び込んできたのが、将軍・徳川秀忠の息子・竹千代の乳母を募集しているという知らせで、彼女は迷わずそれに飛びついたのです。

10-3. 徳川家光を育て上げる

竹千代、後の家光の乳母に採用された春日局は、夫と離縁し、江戸へ向かいました。そして幼い家光に深い愛情を注いで育てあげたのです。創作とも言われていますが、利発な弟と比べられている家光を不憫に思い、次期将軍としての座を確実なものとするため、駿府にいる家康のところへ直訴に行ったという話もありますよね。

そして家光が無事に3代将軍の座に就くと、春日局は家光の側室探しのために大奥の整備にも尽力しました。また、離縁した夫や子供たちのことも気にかけ、稲葉家の再興や子供たちの出世にも協力したのです。自分にかかわったすべての人々に対し、細やかな気遣いをし続けた女性でもありました。

戦国時代の女性は、立場は弱くとも心は強かった

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戦国時代の女性の生き様を、幾つかご紹介しました。時代と男たちに翻弄されたことは事実ですが、困難の中で生きた彼女たちは、芯の強さにかけては誰にも負けなかったと思います。その強さを見習いたいと思いませんか?

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