室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる明智光秀の生涯!なぜ本能寺の変で裏切った?なぜ死んだ?信長との関係もわかりやすく解説

明智光秀という戦国武将に、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?おそらく、「本能寺の変で織田信長を討ったけれど、豊臣秀吉に敗れて三日天下で終わった」という印象が一般的かと思います。しかし、光秀がどんな境遇から信長に仕え、秀吉を上回る能力を発揮して出世したことはあまり知られていません。今回は、光秀がどれだけ有能な人物だったのかを焦点に、彼の生涯をご紹介したいと思います。

1. 国を追われて越前へと逃れる

image by PIXTA / 10008017

明智光秀のはっきりとした出自は今も判明しておらず、それが様々な憶測を呼んでいます。ただ、彼は出自に関係なく武将として超一流であり、それこそが彼が歴史に名を残すことができた理由でした。ここでは、光秀の前半生をご紹介します。

1-1. 謎多き青年期

これだけ有名な戦国武将でありながら、光秀の生年ははっきりとしていません。享禄元(1528)年とも、永正13(1516)年とも言われていますよ。

出自ですが、土岐(とき)氏という名門一族の支流である明智氏の出身とされています。土岐氏自体は超がつくほどの名門でしたが、明智氏は身分の低い一族だったと考えられていますね。そのせいで光秀の出自や生年月日がよくわからないのかもしれません。

光秀の父・明智光綱(あけちみつつな)は若くして亡くなってしまい、家督を継いだ幼い光秀の後見役となったのが、叔父・光安(みつやす)でした。その光安が美濃(みの/岐阜県南部)を支配した土岐氏に取って代わった斎藤道三(さいとうどうさん)に仕え、光秀も同様に道三を主君と仰ぎました。斎藤道三は、織田信長の正室の父でもあります。

1-2. 争いに敗れ、一家離散

しかし、道三は嫡男の斎藤義龍(さいとうよしたつ)と仲が悪く、やがて父子で争うようになりました。ついにはそれが合戦へと発展し、弘治2(1556)年、長良川(ながらがわ)の戦いが起きてしまいます。道三がこれに敗れて討死したため、道三側についた明智氏は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。そして義龍の軍勢に居城・明智城を包囲されると、光安は自分の息子である秀満(ひでみつ)に光秀を託し、城に残って討死を遂げたのです。

こうして、明智氏はほぼ一家離散の運命を辿ることとなってしまいました。

1-3. 越前での苦労

一家離散となった後、光秀は越前(えちぜん/福井県嶺北地方)へと逃れました。美濃と越前は地理的にも近く、何と言っても、越前は国内でも指折りの豊かな国だったからです。

ここで光秀は越前の主・朝倉義景(あさくらよしかげ)に10年ほど仕えたと言われています。ただ、別の説では、仕えるまでにかなり空白の期間があり、寺子屋で子供たちを教えるなどしていたとも言われていますし、医師のようなことをしていたという説もあるそうです。

このため、光秀はかなり生活に苦労しました。しかし、その苦難を共に乗り越えたのが、妻・熙子(ひろこ)の存在だったのです。

1-4. 糟糠の妻・熙子

光秀が越前に逃れた際には、すでに熙子とは結婚していたと考えられます。

熙子は妻木氏の出身で、光秀の許婚でした。美貌で評判だったようですが、結婚前に疱瘡を患い、顔にあばたが残ってしまいます。そのため、熙子の父は、熙子に似た妹を代わりに光秀のもとに送り込んだのです。

しかし、光秀は「私の妻は熙子どのと決めている」と言い、妹を丁重に送り帰し、熙子を改めて妻に迎えたのでした。2人の中は非常に良く、光秀は生涯側室を持たなかったとも伝わっています。

越前で困窮する生活の中、熙子は自らの髪を売って生活を支えたとも伝わっていますよ。元々愛妻家だった光秀ですが、自分に尽くしてくれる熙子をいっそう大切にしたということです。

1-5. 百発百中の鉄砲の腕前を披露!?

その後、光秀は朝倉義景に仕える経緯は、伝承ではありますが、こう伝わっているものがありますね。

まだ浪人中の身だった光秀は、一揆に遭遇すると、朝倉軍の大将の所に赴き「夜襲に備えた方がいい」と進言します。誰もそれを信じなかったのですが、果たして夜襲は実際に起き、光秀の慧眼が見込まれて義景に仕えるようになったということです。

そして、義景の前で光秀は鉄砲の腕前を披露します。30cm四方の的を、45m離れた所から100発撃ってすべて命中させたという逸話があるんですよ。「これは只者ではない!」と思われたに違いありません。

2. 織田信長との出会いと蜜月

image by PIXTA / 43134371

織田信長と出会ったことが、光秀が武将として大出世できた最大の要因でした。信長からパワハラまがいの仕打ちを受けていた印象が大きい光秀ですが、信長から信頼され、重く用いられていたことも事実。実は負け戦もほとんど経験していない光秀のすごさを、ここではご紹介しますね。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: