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異端の戦国武将「織田信長」謎に包まれた生涯をわかりやすく解説

現代の日本人で織田信長を知らない方はいないのではないでしょうか。太閤記などのように信長を描いた書物は少なく、「信長公記」などの難しい古文書があるだけです。文献が少ないにもかかわらず、過去には映画、テレビドラマなどでは盛んに取り上げられ、最近ではゲーム「信長の野望」などの主役として知っている方もたくさんいらっしゃいますね。 たくさんの方によく知られている割には、その生涯がよくわからない織田信長という人物について見てみましょう。

織田信長とはどのような人物だったのか

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映画などでもよく描かれている信長像は、部下に厳しく、独裁者というイメージです。子供の頃は大うつけと呼ばれ、母親である土田御前は弟を愛し、信長を遠ざけていました。しかし、その中から天下を狙う人物にまで這い上がってきたのが織田信長でした

戦国期には、以外と母親に疎まれ、弟が愛されたパターンも多かったようです。しかし、たいていは、兄が生き残るパターンが多く、弟は殺されているケースも多くあります。織田信長の他にも、伊達政宗や徳川3代将軍家光もそのパターンでした。家光は春日の局による後ろ楯が幸いしたのですが、信長や正宗は、幼少期の悔しさと寂しさをバネに成長し、大成したと言えるでしょう。

織田信長の生涯は3つの時期に分けられる

織田信長の人生は49年ですが、大きく3つの時期に分けられます。幼少期の大うつけと言われた時期から、桶狭間で今川義元を討ち、その名を戦国の世に知らしめるまでが第一期です。

その後、信長が織田家の足場を固めた時期で、妻になったお濃の方(帰蝶)の兄に当たる斎藤龍興を討って、岐阜城に拠点を移すまでが第二期と言えます。(お濃の方はその後姿が見えなくなります)

そして、天下布武の野望を持って、岐阜城から京の都に上り、安土城を築いて得意の絶頂の中で、明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命するまでが第三期と言えるでしょう。

織田信長の生涯変わらぬ信条

このように3つの時期に分けられる信長の生涯ですが、それぞれの時代に貫かれていた彼の信条がありました。それは、二つあって、一つは古いものに囚われず、それをうち壊しても新しいものを打ち立てようとする革新力です。もう一つは、何物にも、例え家族であっても妥協しない頑固な厳しさでした。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を登用したり、キリスト教の布教を許したのは革新性と言え、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたり、本願寺勢を徹底的に攻撃したことなどは頑固な厳しさと言えます。また、豪雨の中を桶狭間に進出したり、長篠の戦いでは新しい武器である鉄砲を大量に揃えて、天下無敵と言われた武田の騎馬軍団を破ったところにもその革新性は見てとれるのです。

一方、厳しい面の例としては、子供の頃から信長の後見役の平手政秀とともに信長を支えてきた佐久間信盛を無能として追放処分にした点などがあります。また、黒田官兵衛が木村村重の説得に向かって行きましたが、帰ってこなかったことから、即座にその子供の長政を殺すように命じたこと(実際には竹中半兵衛の機転で助かる)などにも現れているのです。(実際には地下牢に押し込められていました。)

豊臣秀吉と徳川家康に引き継がれた織田信長の信条

この織田信長の革新性と厳しさは、彼を引き継いだ豊臣秀吉や徳川家康がそれぞれ別々に引き継いでいます。すなわち、信長の持つ革新性は、秀吉が受け継ぎ、信長の悲願であった天下統一を実現させているのです。しかし、秀吉には、信長の持つ厳しい面はそれほど受け継がれず、晩年には息子の秀頼を溺愛した結果、豊臣軍団の結束をなくし、死後、徳川家康に天下を奪われてしまいます。

一方の徳川家康は、革新性よりも農業を基本にした旧秩序を重視しますが、信長の持っていた厳しさを生涯をかけて身につけ、徳川3百年の礎を築きました。信長の厳しさは子供の頃から大うつけと呼ばれても自分を変えない頑固さから生まれたものです。しかし、家康は晩年近くまで弱者の立場で、忍耐を強いられ、その中で自身で信じられる者を選ぶことのできる厳しさを身につけていきました。信長は生まれ持った厳しさですが、家康は生涯をかけて獲得した厳しさなのです。

織田信長のデビュー時代 ー 桶狭間までの大うつけと言われた時代

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織田信長の幼少期は、大うつけと呼ばれ、武士の姿とは思えない今でいうラフな姿で野山を駆け巡り、ガキ大将だったと言われています。後見役の平手政秀は、その行動に右往左往させられて困っていたようです。それもあって母親の土田御前からは疎まれ、寂しい幼少期でした。

父親の織田信秀が亡くなった時にも、信長は葬儀に遅れてきて、父親の遺骸に灰を撒いたため、平手政秀は腹を切って諌めたと言われています。しかし、これらの信長の行動はすべて計算の上であったと見る人も多いようです。自分に忠実な家臣を見極めていたのではないかと言われています。

本当の大うつけではなかった織田信長

大うつけと言われた姿にもよく知られるエピソードがあります。妻であるお濃の方(帰蝶)の父親である斎藤道三と正徳寺(一宮市)で会見を行った時です。会見前の道三が道中の小屋から覗き見した信長は大うつけに相応しいラフな姿で、道三は噂通りと感じたようでした。

しかし、実際に会見場に現れた信長は大名らしい正装で現れて道三を驚かせています。実際のところはわかっていませんが、信長がこの会談で道三の信頼を得たのは事実であり、それもこの会談が平手の切腹から3か月後でした。やはり、信長はわざと大うつけと言われる姿を見せて、家臣たちの心根を探り、織田家の家臣団の中で信頼できる家臣を探していたと言われているのです。

母親の土田御前は弟の信行を溺愛しており、その弟を信長は討ちますが、信行の側にいた柴田勝家は許して、自分に仕えさせます。能力の有無、ものを見抜く力を持った者を見極めてそれがある家臣は許したのです。

織田信長の本質を見せた桶狭間の戦い

そして、弟を討って、織田家の当主として足場を固めますが、まだその時には地方の小大名でしかありませんでした。当時、京に上がって天下に号令をかけることを狙っていた今川義元が、織田の領地を通過しようとした時にも、義元は小大名の信長をほとんど警戒していなかったのです。それに対して、信長は間者を派遣して今川勢の動きを掴み、豪雨の桶狭間で動けなくなっていた義元に急襲をかけることに成功します

その結果、今川勢は総崩れを起こし、人質の身で従軍していた当時の松平家康(後の徳川家康)も今川勢を裏切り、自身の地元である岡崎城に逃げ込んだのです。信長は、この勝利によって、戦国大名として認められ、尾張を支配地として固めることに成功しました。

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