室町時代戦国時代日本の歴史

堅実な政治で関東の覇者となった後北条氏とは?わかりやすく解説!

様々な天才達が群雄割拠していた戦国時代。この時代においては力こそが全てであり、民衆の生活なんてものは顧みなかったのが現状でした。しかし、関東地方に目を向けると最盛期には関東のほとんどを手中に入れていたのに民衆のための政治を行なっていた大名がいたのでした。 今回はそんな堅実堅実を重ねて最終的には関東の覇者となった後北条氏の歴史について見ていこうと思います。

1.後北条氏の誕生!幕府の家臣からの転身【初代当主 北条早雲】

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後北条氏が誕生したのは1476年。日本中を大混乱に陥れた応仁の乱から9年後のことでした。

皆さんは後北条氏の初代当主は北条早雲であり、一介の浪人から一気に伊豆・相模の大名となった下克上の代名詞と習ったはずだと思いますが、実は最近の研究だとこの説は真っ向から否定されており、北条早雲の出身は一介の浪人どころか室町幕府の政所執事などを歴任していた名門中の名門であった伊勢氏出身というのが有力となっています。ちなみに、北条早雲という名前も後付けされたもので本名は伊勢新九郎盛時だったとか。まぁ、それでも2国の大名になるのはすごいことなんですけどね。

今川家の重臣として

北条早雲が実は名門生まれだったという証拠。その一つに彼が最初に仕えた家にありました。実は北条早雲の妹があの名門今川家の当主である今川義忠に嫁いでいたのが縁で今川家に仕え、さらに今川家の御家騒動が起こった際には主君である今川家に逆らおうとした小鹿範満を討伐。今川家の御家騒動を終結させることに貢献し、早雲は見事現在の沼津市にあった興国寺城を与えられ城主まで出世したのでした。

伊豆へと侵攻

こうして今川家の重臣として着実と功績を挙げていった早雲でしたが、この頃今川家の所領であった駿河国の隣国ほ伊豆にて当時堀越公方と呼ばれていた一族たちが大揉め。挙げ句の果てには足利茶々丸という少年が母と弟を暗殺するというところまで大混乱状態となります。

これに対して早雲の対応は早かった。早雲は堀越公方が揉めているのを鎮圧することと足利茶々丸によって殺害された母と弟の仇という大義名分を掲げて堀越公方の本拠地伊豆へと侵攻。堀越公方を滅ぼしてさらには伊豆国も手中に収めました。

小田原城の奪取

こうして伊豆を手に入れた北条早雲でしたが、彼の野望は止まりません。伊豆を手に入れた後、彼は隣国相模へと侵攻を計画するようになります。当時、相模国というのは西に大森氏、三浦半島に三浦氏という二つの有名な大名がおり、さらに関東地方自体も揉めに揉めてまさしく戦国といっても良いぐらいなカオスな状態だったのです。

とりあえず早雲は伊豆に近い大森氏を攻めることとなるのですが、当時の大森氏の本拠地であった小田原城は堅城。どう頑張っても早雲には取ることが不可能な立地にそびえ立っていました。

しかし、早雲は策を巡らせて大森氏を謀略にかけ「狩りをしたいけど獲物がそっちに逃げたから小田原城付近を通るよー」と言って油断させた隙に一気に攻略。小田原城を見事に奪い取り、さらには1516年には三浦半島の三浦氏も滅ぼしてついに早雲は伊豆・相模全土を治める立派な大名となったのでした。

後北条氏の国是となった二本の杉

こうして早雲は二つの国を奪い取りひと段落したと思いますが、まだまだ油断はなりません。関東地方にはまだ有力な大名が沢山いたのでした。そんな中で早雲にまつわるエピソードがあります。

昔々、早雲はある日鼠がボリボリと二つの杉をかじっていたそうで、その鼠が杉を削り倒すとなんとたちまち虎へと進化したという夢を見たんだとか。これだけならば単なる夢ですが、実はこの二つの杉というのは当時関東地方を牛耳っていた上杉家のこと。(ちなみにこの上杉家というのは昔から関東で勢力を築き上げていた扇谷上杉と山内上杉のことであり、上杉謙信のことではない。)つまりこの夢はこの二つの上杉家を倒せば早雲やその子孫は虎として君臨するというある一種のメッセージだったのです。

そして、その二つの杉をかじるために次の代へとバトンタッチしていくこととなるのでした。

勝って兜の緒を締めよ。地味だけど頑張った2代目【北条氏綱】

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後北条氏を虎にする夢を見た北条早雲でしたが、やはり歳には勝てず81歳でこの世を去ってしまいます。その後後北条氏を継いだのが第2代当主である北条氏綱でした。

しかし、日本では2代目というのは地味な存在。もちろん後北条氏の場合でも例外ではなく初代と3代の功績に隠れてしまうような当主でしたが、それ以上に後北条氏の関東での勢力を確固たるものとしたのが氏綱だったのです。

次はそんな北条氏綱がどんなことをしたのかを見ていきましょう。

北条に改名しました

さて、早雲の意志を継いで当主となった北条氏綱でしたが、実はこの頃はまだ名前は北条ではなく伊勢氏と名乗っていました。わかりやすさ重視でこの記事は書いているためすべて北条姓で統一していますが、実際に北条と名乗り始めるのは小田原城を本拠地に置いてさらに、昔相模国に栄えていた寺を修復し始めた1521年頃からだと言われています。

どうして室町時代の名門だった伊勢氏出身の氏綱が北条姓に改名したのでしょうか?

実はそれには当時の関東の情勢が深く関わっていました。

当時関東にはかつて鎌倉府の長官として赴任されていた鎌倉公方の末裔である古河公方を始めとして、鎌倉公方を補佐していた扇谷上杉と山内上杉、千葉方面には安房国(今の千葉県館山市あたり)を中心として里見氏が勢力を築いていました。

そんな関東にいきなり現れた伊勢氏。当然関東の人々からは気に入られることはありません。そのため早雲は農民が喜ぶような政策を行い何とか懐柔しましたが、戦国大名となるとプライドというものがあるためそうやすやすと家来になったりはしません。

そのため氏綱はかつて関東地方に強大な権力を築き上げた執権北条氏の後継者となり、関東地方の支配を正当化しようと企んだのです。

この企みはなんとか成功。北条氏と名乗ってからしばらくすると朝廷からかつて執権北条氏が名乗っていた左京大夫というポストを与えられ、実質的な北条氏の後継者としての大義名分を得たのでした。

ちなみに、教科書やここでは執権北条氏と区別して後北条氏としています。

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