- 1.井伊直虎が守った伊井家とは
- 1-1井桁の家紋は捨て子から
- 1-2断絶するも、お家再興を果たした伊井家
- 2.女城主井伊直虎の幼少期
- 2-1女城主直虎の誕生
- 3.筆頭家老悪意により当主が誅殺
- 3-1許嫁と離れ離れになる直虎
- 3-2井伊家一族の危機
- 3-3傷心の直虎は龍潭寺に出家
- 3-4なぜ直虎は出家した?
- 4.またも訪れる井伊家存亡の危機
- 4-1夢にまで見た直親の帰還
- 4-2桶狭間の戦いで天下から地へ落ちた今川
- 4-3井伊家1000年の歴史の中で最大の危機
- 5.次郎法師直虎お家の危機を救う
- 5-1井伊谷の女城主直虎誕生!
- 5-2今川の狙いは井伊家を潰すこと!徳政令発布
- 5-3直虎の統治権剥奪からの復習
- 6.井伊家再興を願う直虎
- 6-1道好死後の井伊谷
- 6-2井伊家再興とその後の直虎
- 女城主直虎は、井伊谷の民の心に残る領主だった
この記事の目次
1.井伊直虎が守った伊井家とは
伊井家は、遠江井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町)の国人領主です。諸説ありますが藤原鎌足の子孫で、藤原房前を祖とする、藤原北家の後裔ともいわれています。
1-1井桁の家紋は捨て子から
平安時代末期の史料には、既に井伊の名前が載っています。鎌倉時代に地頭となり、南北朝動乱には南朝側に名を連ねていました。直虎のころは、今川氏の支配下に置かれたのです。
龍泰寺(後の龍潭寺)の井戸近くに捨てられていた、男児が井伊家の祖といわれています。(事実ではなく、捨て子は丈夫に育つとの言い伝えからだとか。)井伊の家紋は、捨て子がいた井戸のそばに生えていた橘に因んでおり、旗印は井戸を現す井桁です。
1-2断絶するも、お家再興を果たした伊井家
小国の井伊家が戦乱の世の中を生き抜くのは大変なことでした。当時遠江を支配していた守護大名の今川氏から圧力を受け、何度も断絶の危機に直面しました。一時井伊家は断絶し、歴史から名前が消えています。
井伊直政の時代に再興が叶いました。酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)と並ぶ徳川四天王のひとりとなり大活躍し、彦根城の城主となっています。
直虎をはじめ井伊家のものが、家康に井伊家の血を継ぐ直政を引き合わせたからこそ叶ったお家再興です。家康の正室築山御前(つきやまごぜん)が、直虎の曽祖父・直平の孫だったから、直政がスピード出世できたとの説もあります。悪名高き幕末の大老井伊直弼も、直虎の子孫です。
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2.女城主井伊直虎の幼少期
小さな領地しか持てなかった井伊家は、大名たちの争いに翻弄されています。直虎の曽祖父直平は、敗戦で没落するも、今川家に臣従しなんとか家を復興させました。そんな井伊家に、姫が生まれました。これが直虎です。
2-1女城主直虎の誕生
井伊直虎(いいなおとら)は、井伊直盛(いいなおもり)の一人娘として生まれました。「直虎」といえば男性的な名前ですが、先ほどから女城主と説明している通り女性です。途中出家しており本当の名前は「井伊次郎法師直虎(いいじろうほうしなおとら)」といいます。
戦国時代の女性の詳しい資料は残っていません。残念ながら、直虎についても生まれた日や幼名なども分かっていないのです。天文4年(1535)に父直盛の弟直満(なおみつ)の子直親が、誕生しました。直親は直虎の許嫁であり、直虎が誕生したのもこの時期が有力視されています。
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3.筆頭家老悪意により当主が誅殺
直平の戦死により、長男だった直虎の父直盛が家督を継ぎます。直盛は、弟直満の子直親を後継者として養子に迎え、一人娘の直虎と結婚させる予定でした。いわゆる直親を直虎の許嫁に決めたのです。これに面白くなかったのが、井伊家家老の小野和泉守政直(おのいずみのかみまさなお)でした。
3-1許嫁と離れ離れになる直虎
直虎の許嫁に亀之丞を置いたことで、井伊家は安泰と安心していたときのことです。このことに反発した家老の政直がもとで、直盛の弟二人が小野と対立。小野は今川義元に、直満と直義(なおよし)兄弟に謀反の動きありと讒言したのです。これを、真に受けた義元は、弁明する二人を駿府に呼び寄せ、小野和泉守同席のもと詰問し殺害しました。
今川家の許しを得ずに勝手に甲斐の武田家と戦ったことに立腹した、今川義元に不信感を与えてしまい殺されたとの説もあります。この件で井伊家の今川家に対する忠節が疑われることがなかったことは、不幸中の幸いだったようです。しかし、直満の子である、亀之丞も命を狙われます。