室町時代戦国時代日本の歴史

戦国最大の番狂わせ「桶狭間の戦い」とは?わかりやすく解説

「桶狭間の戦い」という言葉自体なら、聞いたことがある方が多いと思います。織田信長今川義元が戦い、信長が勝利を収めたということもおそらくご存知でしょう。では、なぜ両者は戦い、どのように戦いが推移したかというと、あまり知られていない部分もあるかと思います。今回は、桶狭間の戦いについてもう少し掘り下げてご紹介しますね。意外なことがわかると思いますよ。

桶狭間の戦いの概要とその主役たちについて

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桶狭間の戦いが起きたのは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)のことでした。場所は尾張(おわり/愛知県西部)の桶狭間。当時新進気鋭の戦国武将・織田信長と、押しも押されぬ超大物・今川義元による戦いで、誰もが予想しえない結末を迎えました。信長が勝ってしまったのです。河越城(かわごえじょう)の戦い・厳島の戦いと並ぶ、日本三大奇襲と呼ばれる戦いでした。

当時はまだ若造だった織田信長

桶狭間の戦いが起きた永禄3(1560)年、信長は27歳でした。まだまだ若造と言ってもいい部類です。

若い頃は、突拍子もない行動をする「うつけ者」として有名だった信長。家臣たちは家の行く末を案じるほどでしたが、父・織田信秀(おだのぶひで)が亡くなり跡を継ぐと、うつけ者を封印して武将として開眼していきます。

とはいえ、彼はまだまだ未知数の部分が多い状態でした。しかも織田氏は、信秀の没後、信長と弟との間で内紛も起きており、尾張一国の統一すら完了していなかったのです。

「海道一の弓取り」今川義元

一方、今川義元は42歳。武将としても円熟期を迎えており、今川氏の地盤を盤石なものとして全盛期を築き上げ、「海道一の弓取り(東海道でいちばんの武将という意味)」と呼ばれるようになっていました。駿河(するが/静岡県中部・北東部)と遠江(とおとうみ/静岡県西部)を本拠地とし、武田氏や後北条氏と肩を並べる最強クラスの戦国武将だったのです。

また、強豪の武田氏や後北条氏と同盟を結んだことで背後の憂いが無くなり、その目は西へと向けられたところでした。

今川と織田の勢力争い

今川氏と織田氏の争いは、桶狭間の戦い以前から生じていました。

両者が争っていたのは、領地の中間にある三河(みかわ/愛知県東部)を巡ってのことです。この地は松平氏が治めていましたが、いかんせん弱小だったため、今川氏にほぼ取りこまれたような状態となっていました。それでも今川と織田は幾度となく小競り合いを起こしており、それが20年ほど前から続いていたのです。

ちなみに、その小競り合いには、松平竹千代(まつだいらたけちよ)という少年が巻き込まれていました。後に徳川家康として天下を取ることになるこの少年は、今川氏の人質となるはずだったところを、今川・織田の争いの最中に織田に連れ去られ、その後やっと今川に送られるという激動の少年時代を送っています。

こうして、今川義元は織田信長を早急に叩くことを決断したのです。

桶狭間の戦いへ!10倍の兵力を前にした信長に勝算は?

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大軍勢を率いた義元は、尾張を目指して行軍を始めました。猛獣のターゲットとなったも同然の信長でしたが、決戦を挑むこととなります。約10倍もの兵力を前にして、信長はどのように戦いを運んだのでしょうか。

2万5千 VS 2千五百、勝つのはどっち?

永禄3(1560)年5月12日、義元は2万5千もの大軍を率いて、尾張を目指し出発しました。その5日後には、尾張に最も近い今川の最前線の城へと入城し、臨戦態勢を取ります。

今川出撃の報せを受けた織田陣営では、清洲城(きよすじょう/愛知県清須市))に籠城するか、出撃するかで諸将の意見が真っ二つに分かれていました。というのも、信長の擁する兵力はたった2千5百ほどだったからです。10倍の敵を前に、真っ向勝負を挑むなど無謀以外の何物でもありませんよね。戦国時代、こういう局面では籠城するのが当然とされていました。

「今川何するものぞ!」出陣を決めた信長の覚悟

そんな中、今川軍が織田の砦に攻撃を仕掛け、織田方が敗れたという報せが舞い込みました。

すると信長は突如として立ち上がり、「人間五十年」のフレーズで有名な「敦盛(あつもり)」の舞を舞うと、出陣を命じたのです。

 

人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり

一度生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか

 

敦盛のフレーズは、この時の信長の心情を代弁していたのかもしれません。

「人間の50年の年月など、天上界にある下天でいえばわずか1日にしか当たらない。一度この世に生れ出て、滅びぬ者などいないのだ…ならば、今こそ運を天に託して一世一代の大事を成し遂げよう!」

そんな風に、信長は思ったのかもしれませんね。

そして、兵を率いて清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝祈願をし、今川軍と対決すべく進軍を開始したのでした。

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