教養歴史

悲劇のプリンス「豊臣秀頼」はなぜ滅ばなくてはならなかったのか。その生涯を解説

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉という存在を父に持った、豊臣秀頼。誰もがご存知かと思いますが、彼は若くして滅ばなくてはなりませんでした。家康もそのたたずまいにカリスマ性を感じ取り、恐れたとまで言われている秀頼。しかし、歴史に残されている彼の行動・言動は、父のような偉大さには遠く及ばないものでした。彼はいったいなぜ滅びの道を歩むことになったのか…その人生をご紹介します。

天下人・豊臣秀吉の待望の実子

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不明 – 京都市東山区養源院(ようげんいん)所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

豊臣秀頼は、豊臣秀吉と淀殿の息子として生まれ、待望の男子として溺愛されて育てられました。ただ、彼が生まれたことによって、秀吉の後継者と定められていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が排除される事件が起きてしまいます。老い先短い秀吉が息子を思って行った政権基盤固めは、功を奏するのか…秀頼の少年時代、どんな時代背景があったのかを見ていきましょう。

豊臣秀吉と淀殿の間に生まれた待望の男子

秀頼は、文禄2(1593)年に豊臣秀吉と側室の淀殿との間に誕生しました。

父・秀吉は言わずと知れた天下人。低い身分から成り上がった偉大な武将です。そして母・淀殿は織田信長の姪。両親から偉大な血を受け継いだ子供でした。

実は、秀頼の前に、秀吉と淀殿の間には「鶴松」という男の子が生まれていました。しかし彼はわずか3歳で亡くなってしまったのです。彼には「捨て子はよく育つ」という言い伝えから「棄(すて)」という幼名がつけられていたのですが、夭逝ということがあったため、秀頼には「拾(ひろい)」という逆の幼名がつけられました。

秀頼は、鶴松が亡くなり、もうさすがに子供は持てないか…という諦めムードの中で、秀吉が57歳でもうけた男子でした。そのため秀吉の喜びようは大変なもので、彼を溺愛して育てたのです。

秀頼のため?秀吉の後継者・秀次が理不尽な死を遂げる

秀吉は実子が持てないと見込んでいたため、早くから甥の豊臣秀次を後継者として定め、関白の位につけていました

しかし、老境に差し掛かった秀吉は、かつてのような判断力を失っていたようです。溺愛する我が子・秀頼を後継者にしたくなったのかもしれません。

文禄4(1595)年、秀次は突如として関白の位を奪われ、切腹させられてしまいます。それだけではなく、秀吉は秀次の妻子すべてを殺すように命じたのです。その非道ぶりに世間は震え上がりました。

ただ、これで秀吉の後継者は秀頼ただひとりとなったのです。

父の死後、わずか6歳で家督を継ぐ

先が短いことを悟っていた秀吉は、幼い息子へ残す政権基盤を固めるために尽力しました。秀頼を支える有力武将5人からなる五大老、実務を取り仕切る五奉行を定め、自分の亡き後彼らが秀頼を支えるように約束させたのです。

秀次事件の翌年、秀頼はわずか4歳で上洛し、官位まで授かりました。4歳の幼子に朝廷の官位とは、何ともおかしなものですが、秀吉はそこまでの執念を秀頼の将来に持っていたのです。

そして慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、秀頼は6歳で家督を継ぐこととなりました

関ヶ原の戦いと徳川家康の脅威

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秀頼が家督を継いだ後、五大老筆頭の徳川家康は目に見えて独自の動きをするようになり、それは豊臣家をないがしろにしていると取られても仕方のないものでした。そんな家康に対して石田三成らが挙兵し、関ヶ原の戦いへと突入します。秀頼はこの戦いに直接の関係はありませんでしたが、戦後、家康のリーダーシップはさらに強まり、秀頼は徐々に力を削がれていくこととなるのです。

徳川家康の台頭

秀吉は五大老に後事を託して亡くなりましたが、その筆頭・徳川家康はほどなくして動き始めます。それは、秀吉の遺言に背くものでした。秀吉が禁じた諸大名との婚姻などを勝手に行い、明らかに豊臣政権内で台頭していこうという動きが見え始めたのです。

そんな家康の動きに危機感を抱いたのが、石田三成らをはじめとした政権の官僚たち「文治派(ぶんちは)」でした。ただ、三成を嫌う武将たちも多く、そんな彼らは「武断派(ぶだんは)」として対立を深めていきます。

そんな時、両派のブレーキ的な存在であり、家康にとっても無視できなかった政権の重鎮・前田利家が亡くなったことで、両派の緊張は一気に高まっていったのでした。

そして慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに突入するのです。

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