室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の群雄たちと渡り合った相模の獅子「北条氏康」の生涯をわかりやすく解説!

戦国時代を通じて争いが絶えなかった関東地方。多くの武将たちが割拠し、混沌とした中にあって彼らをまとめ上げた人物がいました。「相模の獅子」こと北条氏康です。地元の神奈川県小田原市ではNHK大河ドラマを招致しようと粘り強く活動されていますし、いずれ氏康が主人公になる時も近いのではないでしょうか。今回は武田、今川、上杉ら並み居る戦国の群雄たちと堂々と渡り合った氏康の生涯を解説していきたいと思います。

相模・伊豆の支配からスタートした後北条氏

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戦国時代の関東に覇を唱えることとなった後北条氏ですが、小田原城に本拠地を構えたのち、初代から数えて5代目まで続いています。氏康はその3代目に当たりますね。まず後北条氏がどのようにして勢力を持つようになったのか?その前史を見ていきましょう。

下克上どころか名家の出身だった祖父

氏康の祖父、伊勢宗瑞(北条早雲とも)はもともと長氏(または盛時)と名乗り、これまでの通説では浪人の身分から身を興し、下克上によって国を奪ったとされてきました。

しかし歴史研究が進むうち、彼の素性は元は室町幕府の奉公衆だったこと。そして武家の名家として知られた伊勢氏の血脈だということがわかってきたのです。ということは孫の氏康もまた名家出身のぼんぼんということになり、武田氏や今川氏らと肩を並べるほど由緒正しい家柄だっということになります。

妹の嫁ぎ先である駿河今川氏の家督争いを鎮めて実績を積んだ彼は宗瑞と名を改め、次に将軍足利義澄の内命を受けて1493年に伊豆国へ侵攻しました。家督相続に端を発した騒動を抑えるためです。

そのまま伊豆を平定した宗瑞は、韮山城を本拠にして次に相模国(神奈川県西部)に触手を伸ばし始めました。まず小田原城の大森氏を追って相模へのの第一歩をしるし、それから17年かけて三浦半島の三浦氏を滅ぼして相模を平定しました。初代宗瑞の時期に後北条氏の地場が固まったといえるでしょうか。

伊豆千代丸の誕生と版図を広げる後北条氏

ところで戦国武将の異名ってなかなか面白いものですね。当時からそう呼ばれていたわけではないのでしょうが、氏康は「相模の獅子」、武田信玄は「甲斐の虎」、上杉謙信は「越後の龍」、伊達政宗は「独眼竜」など、いかにも強い動物に例えることが戦国武将の力量のバロメーターを表していたのでしょう。

さて、その獅子と呼ばれた氏康は、宗瑞がまだ存命中の1515年に小田原城もしくは韮山城で誕生しました。幼名は伊豆千代丸。父氏綱の頃から北条氏を名乗るようになり、今川の属将だった立場から自主独立へと向かっていきます。

北条氏といえば鎌倉時代に執権政治を推し進めたことで有名ですが、直接的な繋がりはありません。戦国時代になって「後から出てきた北条氏」という意味で後北条氏と呼ばれているのです。

当初関東を支配していたのは室町将軍と血縁がある鎌倉公方でしたが、京都の足利将軍と仲が悪く、討伐を受けたあげく現在の茨城県古河あたりで落ちぶれていました。

その代わりに力を持っていたのが関東管領と呼ばれる2つの上杉氏でした。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏山内(やまのうち)上杉氏といいますが、この当時は激しく争う関係となっていて、関東地方で戦火が収まらないのは彼らが原因だったともいえるかも知れません。

氏康の父、2代目を継いだ氏綱もまた宗瑞に負けず劣らずの勇将でした。両上杉氏が争っている間隙を突いてますます版図を広げ、現在の埼玉県川越や岩槻のあたりまで進出し、江戸城をはじめとする東京23区も彼の支配下に入りました。氏綱は「勝って兜の緒を締めよ」のことわざでも有名な方ですが、宗瑞や氏康ほど目立たない存在ながらも北条氏の基礎を盤石にした人物ともいえるでしょう。

氏康若き日の活躍

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不明 – 小田原城天守閣所蔵品。http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

偉大な創始者の3代目というのは不思議なもので、足利幕府3代将軍義満にしても、徳川幕府3代将軍家光にしても、歴史に大きくその名を残している場合が多いような気がします。果たして小田原北条氏3代目を継ぐことになる氏康はどうだったのでしょうか?彼の若き日を振り返ってみましょう。

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明石則実