室町時代戦国時代日本の歴史

「甲相駿三国同盟」とは?戦国時代最初で最後の三国間平和条約をわかりやすく解説

日本各地で群雄が割拠し、戦乱の絶えなかった戦国時代。その中にあって3つの戦国大名が互いに領土を侵さないという平和条約が結ばれました。それが「甲相駿三国同盟」と呼ばれた日本最初の三国間平和条約だったのです。ほんの15年ほどの短い期間に過ぎませんでしたが、それは戦乱の世にあって稀有な出来事だったといえるでしょう。それぞれの家の思惑、同盟の主人公となった人々、その後の推移などにスポットを当てて紹介していきたいと思います。

武田氏、今川氏、北条氏それぞれが置かれた状況

Ujiyasu Hojo.jpg
By 不明 – 小田原城天守閣所蔵品。http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html, パブリック・ドメイン, Link

後世の江戸時代の大名たちとは違い、戦国大名は絶えず外からの侵略と、内からの反逆に対して対策を考えねばなりませんでした。また国内の富国強兵を推し進め、自らの家臣たちを養うためにも領土の拡大は不可避で、「一所懸命」という言葉があるように、土地の確保は戦国時代においては生命線だったのです。今回主役となる甲斐の武田氏、駿河の今川氏、相模の北条氏にも三者一様の事情がありました。まずはそこから動きを追っていきましょう。

「越後の龍」と決着を付けたかった武田氏

「甲斐の虎」こと武田晴信(信玄)。甲斐(現在の山梨県)を治めた戦国の巨星として有名な戦国大名ですが、彼が生まれる前後は駿河の今川氏とは敵対関係にありました。甲府のすぐ近くまで今川勢に攻め込まれたといいますから、武田氏にとっては苦しい時代だったことでしょう。また晴信の父信虎は、甲斐を統一するべく国内の反対勢力とも戦いを繰り返し、戦いの止む時はありませんでした。

今川氏とは和睦したものの、信虎は関東の上杉管領家と結託して相模の北条氏を攻撃しています。甲斐統一戦から続く外征によって甲斐は疲弊し、国内には怨嗟の声が満ちました。そういった経緯もあり晴信は1541年、父を駿河へ追放し、家督を継いだのです。

さっそく晴信は隣国の信濃を我がものとするべく、着々と作戦を実行していきました。諏訪地方の諏訪氏を皮切りに、佐久地方の笠原氏、中信の小笠原氏、北信の村上氏などを撃破し、いよいよ川中島四郡へ迫ったのです。

しかし進撃を続ける武田軍の前に立ちはだかったのが「越後の龍」こと上杉景虎(謙信)でした。今までとは桁違いの動員力と兵站力を持つこの強敵を撃破するには、武田氏が持つ全兵力をぶつけねば勝ち目はありません。

だから武田氏としては、全兵力を川中島へ振り向けるために、なんとしても背後を安全にしておく必要があったのです。

とにかく失った尾張を取り戻したかった今川氏

16世紀はじめに、駿河の今川氏親は尾張守護の斯波氏と戦って、尾張(現在の愛知県西部)の半分を手中に収めていました。ところが、織田信長の父信秀が謀計によって那古屋城(現在の名古屋城)を奪取し、今川氏の勢力は尾張国外へ追われてしまいました。

その後、「花倉の乱」と呼ばれた今川氏のお家騒動のあと、家督を継いだのは今川義元だったのです。すでに駿河、遠江、三河(現在の静岡県全域~愛知県東部)を手中に収めていましたが、かつて今川氏が押さえていた尾張を取り戻すことは彼にとって悲願でした。

今川氏が西の尾張へ向かうためには、本拠地駿河の背後にあたる北と東を安全に保っておく必要があったのです。そこは武田氏と北条氏の勢力圏内でした。

上杉管領家を関東から駆逐したかった北条氏

いっぽう、相模(現在の神奈川県西部)の北条氏は、初代北条早雲(伊勢宗瑞)の時に今川氏の勢力から分離し、子の氏綱の代には完全に独立を果たしていました。そのために隣国の今川氏とも領地争いで干戈をまじえることがあったのです。

しかしながら3代目氏康の頃ともなると、武蔵(現在の神奈川県東部~東京都~埼玉県南部)へ勢力を拡大し、旧来勢力の上杉管領家と大規模な抗争を繰り広げたため、今川との領地争いどころではなくなりました。

そこで今川氏とはいったん和睦を果たし、1546年、河越夜戦において上杉管領家を打ち破ることに成功。しかし依然として上杉管領家の勢力は根強く、これを完膚なきまでに叩き潰し、北関東へ覇権を広げるためには背後の憂いをなくすことが肝要だったのです。背後とは言わずと知れた甲斐と駿河のことですね。

甲相駿三国同盟の成立

image by PIXTA / 35879104

いよいよ「甲相駿三国同盟」が結ばれる時がきました。武田、今川、北条お互いの利害が一致したために、史上稀にみる三国同盟が成立したのですが、家の結びつきというものは、やはり当時は婚姻という形がもっとも重きをなすものでした。具体的に解説していきましょう。

家同士の結びつきは婚姻関係が最も重要

一般的には政略結婚と呼ばれますが、当時の武家や公家などほぼ全ての結婚が「政略結婚」だったといえるでしょう。子を産み、子孫繁栄を願うことも結婚の大きな意義ではありますが、家同士の結びつきを深めることもまた結婚の重要な目的の一つだったのです。

特に今川氏と北条氏の場合、【駿河の尼御台】ともいわれた寿桂尼の娘である瑞渓院北条氏康に嫁ぎ、瑞渓院の娘である早川殿が今度は今川氏真の正室となっています。親子二代にわたって今川と北条との結びつきを深めるために双方の家に嫁いでいったわけですね。

1552~1554年にかけて執り行われた、この3つの家同士の婚姻関係がどのような形になったのか?図式にしてみました。

 

今川義元の娘【嶺松院】 → 武田信玄の嫡男【武田義信】に嫁ぐ。

武田信玄の娘【黄梅院】 → 北条氏康の嫡男【北条氏政】に嫁ぐ。

北条氏康の娘【早川殿】 → 今川義元の嫡男【今川氏真】に嫁ぐ。

 

すなわち、この3つの婚姻という事実だけで繋がったわけであり、巷間いわれている駿河の善得寺で3者の会談が行われ、そこで同盟を締結したという善得寺会盟」は現在では否定されています。戦国大名同士が一つ同じ場所に会盟することなど、安全保障の面からいってリスクが高かったということでしょう。ちなみに北条氏の逸話を集めた史書の中にも婚姻があったという事実しか認められていません。

 

「是月、北条氏康、今川義元ノ虚ニ乗ジテ駿河ヲ侵シ、武田晴信、義元ヲ赴援ス。臨済天宗崇孚大原ノ斡旋ニ依リ、晴信ノ女ヲ氏康ノ子氏政ニ、氏康ノ女ヲ義元ノ子氏真ニ嫁セシムルヲ約シテ和、成ル」

(この月に北条氏康は今川方の虚を突いて駿河へ侵攻してきた。

ところが武田晴信は今川義元を救援する動きに出た。

そこで太原雪斎の斡旋により、晴信の娘を氏康の子氏政に嫁がせ、氏康の娘を義元の子氏真に嫁がせる約束をしたため、同盟が成立した。)

出典元 「北条五代記」より

 

太原雪斎とは駿河の臨済宗の僧で、今川義元の信任が厚く、政治にも軍事にも重きをなす存在でした。今川氏の最盛期を支えた人物の一人ですね。

次のページを読む
1 2 3
Share:
明石則実