室町時代戦国時代日本の歴史

美貌にして勇敢な「甲斐姫」戦国最強の姫君の生涯を徹底解説

戦国時代の女性は戦場に出ることはほとんどありませんでしたが、その稀な方の例に入るのが、今回ご紹介したい甲斐姫(かいひめ)という女性です。「東国無双の美人」と称されながらも、男性以上に冴えわたる武芸の腕前をもって、何倍もの敵軍相手に一歩も譲らない戦いを見せたというんですよ。さて、いったいどんな女性だったのか、気になりませんか?

「東国無双の美人」甲斐姫

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忍城(おしじょう/埼玉県行田市)城主・成田氏長(なりたうじなが)の娘・甲斐姫は、美貌の姫君に成長しながらも、同時に男性に引けを取らない武芸の腕前の持ち主でした。そんな彼女が自ら武芸の腕を振るわなければならない局面が訪れます。豊臣秀吉の小田原征伐の際、彼女はどんな役割を果たしたのでしょうか。

忍城城主・成田氏長の娘

元亀3(1572)年、甲斐姫は、成田氏長の娘として誕生しました。氏長の居城・忍城は、映画でも有名になったお城です。

当時の関東は混沌とした状況にあり、諸豪族は情勢を見ては従う先を次々と変えていました。その中で、父・氏長は甲斐姫の母である正室を離縁することになります。母の実家・由良(ゆら)氏の関係が悪化したためでした。

父はまもなく新しい正室を迎えましたが、甲斐姫はこの継母と仲が良く、後に生まれた妹たちともうまくやっていたそうです。性格も良い女性だったことがうかがえますね。

東国無双の美人は武芸も無双

成長した甲斐姫は、その美貌から「東国無双の美人」と称されるようになりました。

しかし、無双だったのは美貌だけではありません。

なんと、彼女は女性ながらに武芸の腕前も超一流だったのです。「男子だったら成田家中興の祖になれた」とまで言われたほどだったそうですよ。

彼女が武芸に秀でていたのには、それなりの理由がありました。

離縁された実母は由良成繁(ゆらなりしげ)という武将の娘でしたが、やはり武芸巧者だったそうです。しかも、その母親(つまり成繁の妻)・妙印尼(みょういんに)がこれまたすごい女性。息子が不在の間に敵に攻められた際、老齢ながらも自ら指揮を執って籠城戦を生き抜いた女傑でもあったんですよ。

そんな母や祖母の血を引いていたのですから、甲斐姫が無双の姫君に成長したのも納得ですよね。

忍城に迫る豊臣秀吉の大軍勢

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天下統一への道を邁進している豊臣秀吉は、その総仕上げとして、小田原を本拠地とする後北条氏の攻略にかかりました。成田氏は後北条氏に属していたため、秀吉の軍勢に攻められることとなってしまいます。しかし、父・氏長は小田原城内におり、忍城に残されたのは甲斐姫や一族のみ。絶体絶命のピンチに、姫はどう動いたのでしょうか。

豊臣秀吉の小田原征伐

甲斐姫の成田氏は、上杉氏や後北条氏に属していましたが、織田信長の進出によりその家臣の滝川一益(たきがわかずます)に鞍替えしました。しかし、信長の死後に関東で起きた戦いで後北条氏が勝利すると、再び後北条氏に従属先を変えています。変わり身が早いと思われるかもしれませんが、生き抜くためには当然の策でした。

ただ、これによって成田氏は大ピンチを迎えることになってしまいました。

豊臣秀吉が、天下統一を完了するために、後北条氏の討伐に乗り出してきたのです。天正18(1590)年のことでした。

父・氏長不在の大ピンチ

秀吉の大軍は、後北条氏の本拠地・小田原城を包囲しただけでなく、関東各地にある北条方の武将の城を次々と落としにかかりました。そしてその標的には、もれなく甲斐姫らのいる忍城も含まれていたのです。

しかしながら、甲斐姫の父で城主である成田氏長は、城にはいませんでした。小田原城に詰めており、もはや戻れなくなっていたのです。

忍城を守っていたのは、城代に指名された氏長の叔父で一族の元老である成田泰季(なりたやすすえ)でした。歴戦の勇将ではありましたが、すでに75歳の高齢。この戦いを切り抜けられるかどうかは、微妙なところでした。

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