賤ヶ岳の戦いに至るまで、いったい何があったのか?
賤ヶ岳の戦いは、柴田勝家と豊臣秀吉の間でいきなり起きたわけではありません。それに至るまでの経緯が重要で、信長の死後の後継者問題を決めた「清洲会議(きよすかいぎ)」での両者の意見対立が尾を引き、直接対決へと突入することになったのです。では、いったい2人の間に何があったのか、見ていきましょう。
賤ヶ岳の戦いの概要
賤ヶ岳の戦いが起きたのは、天正11(1583)年4月のことでした。場所は近江(おうみ/滋賀県)で、琵琶湖と余呉湖の間にある標高約421mの賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近。激突したのは、織田信長の重臣である柴田勝家と、当時はまだ羽柴(はしば)姓を名乗っていた豊臣秀吉でした。ここでは便宜上「豊臣秀吉」を使わせていただきますね。
賤ヶ岳の戦いは、そこに至るまでの事情を知ると、どうしてこうなったのかが理解しやすいと思いますので、まずは背景からご紹介しましょう。
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信長が討たれてからの勝家、秀吉の動き
天正10(1582)年6月、織田信長は本能寺において明智光秀(あけちみつひで)に急襲され、思いもかけない最期を遂げました。これが本能寺の変です。
この知らせに接した時、勝家と秀吉はそれぞれ別の場所で別の敵と交戦中でした。勝家は北陸地方で上杉景勝(うえすぎかげかつ)の勢力に苦戦しており、秀吉は中国地方で毛利氏を相手にしていたのです。
秀吉の動きは実に素早く、毛利方と和睦をまとめ上げると、兵を返して京都に乗り込み、あっという間に光秀を討ち果たしました。これで秀吉は主君の仇を討つという大殊勲を勝ち取りましたが、一方、勝家は上杉方に足止めを食らい、秀吉による山崎の戦いに参加することもできなかったのです。
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