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大坂城の露と消えた誇り高き姫!浅井三姉妹の長女淀殿(茶々)の運命は如何に

信長の妹お市の方が忘れ形見の浅井三姉妹の長女淀殿(茶々)は、母を死に追いやった憎むべき敵豊臣秀吉に引き取られて養われます。浅井家の血筋を絶やすまいと秀吉の側室になり、跡継ぎの秀頼を産みました。秀吉の死後も、誇りを忘れず最後まで息子と共に大坂城で戦いました。今回は、淀殿についてお話ししたいと思います。

1.浅井三姉妹の長女茶々の幼少期

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浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に生まれた茶々。後に天下人・秀吉の寵愛を受け、淀城を与えられ淀殿(よどどの)と呼ばれるようになりました。二人の男児の母となり、息子を守りながら女だてらに戦国の世を強く生き抜いた女性です。彼女の人生を変える事件が次々と起こった、幼少期はどんなものだったのでしょう。

1-1父長政と母お市の結婚は政略結婚だった

淀殿は、永禄12年(1569)に北近江国(現在の滋賀県北部)にある小谷城で生まれました。戦国大名の浅井家三代目の当主長政(ながまさ)と織田信長の妹お市の方との間に誕生しています。本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)。両親は、戦国時代にありがちな政略結婚です。長政は信長も一目置く戦争の名人でした。天下人を目論んでいた信長は、長政を敵に回せば後々厄介な存在だと踏み、同盟を組もうとお市の方を嫁がせたようです。

同盟後信長は、長政のライバルだった六角氏を滅ぼし、その領地を二分し織田家と浅井家で分け合います。これは信長にとって、岐阜から京の都への道を確保する一歩でした。実は、足利義昭(あしかがよしあき)とも同盟を結んでおり、義昭を将軍にして裏から世の中を動かそうと考えていました。

その後、信長が長政の親友(?)越前国(現在の福井県東部)朝倉を、交易が盛んで日本海の幸が豊富なことから攻撃しました。「朝倉を狙わない」こともお市の方と婚姻前の条件でしたが、信長は簡単に裏切ったのです。長政は朝倉攻めには参加せず。諸説ありますがこれが、姉川の戦いのきっかけになったようです。姉川の戦いで長政が負けた時、信長はとどめを刺していません。

1-2信長によって父長政は自害

同盟から約3年間で、信長による小谷城の戦いに敗れ城は落城。天正元年(1573)8月28日に長政は29歳という若さで自害して果てました。茶々にしてみれば、叔父信長によって父が殺されたという現実に直面したのです。ここから、浅井三姉妹の波乱の人生が始まります。

長政は自害する前に信長と合意のもとで、お市の方と、長女茶々、次女初(はつ)、生まれたばかりの江(ごう)の4人を送り返しました。長政とお市の方の中は、周囲もうらやむほど、むつまじかったとか。ですが、お江が生まれたばかりで、母と引き離すのにはあまりにも忍びないと、泣く泣くお市の方は城を後にしたといわれています。

しかし、別の女性との間に生まれた長男の万福丸は、家来に頼み逃しましたが捕らわれ、秀吉が串刺しの刑にしたようです。男児だったから仕方がないとの、戦国時代には常識的な処刑だったとか。でも、串刺しの刑はやりすぎとの声もあります。正月の祝いの席で長政のドクロを盃にして、信長が酒を飲んだことは有名な話ですね。

2.母の再婚と死に人生が一転する茶々

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さすがの信長も、実父を失った茶々たちのことを可哀想に思ったようで、「健やかに暮らさせるように」と尾張国(現在の愛知県西部)にある清州城に預けます。清州城は、周辺を海や信長領に囲まれており、戦国一安心して暮らせる場所だったのです。ここから、新たな人生が始まります。

2-1束の間の親子4人の幸せな日々

清州城の城主織田信包(おだのぶかね)に、4人の親子を預けました。信包は、信長の弟でお市の方の兄にあたる人物です。どこにいても心安らかに暮らせる城がなかった乱世にしては珍しく、清州城は安心して暮らせる場所でした。

茶々の生まれ年は分かっていません。ここに来た時茶々は、5歳だったといわれています。それから、9年後の14歳までここで暮らしました。14歳といえば、一人前の女性として扱われる年齢です。少女時代は、安心して暮らせました。

しかし、戦国の世の中を震撼させた「本能寺の変」が起こったのです。叔父の織田信長が亡くなった大事件。長男信忠も戦死したため、跡継ぎ問題が持ち上がり、「清州会議」が清州城で行われました。次男の信雄(のぶかつ)と三男の信孝(のぶたか)のどちらを選ぶかが話し合われたのです。でも、腹黒の秀吉が、推したのは信忠の長男で赤ん坊の三法師(さんほうし)でした。この一件で、またまた戦乱の世の中に戻る結果になるのです。

2-2母が嫁ぐ相手は野獣のような男性だった

三法師を推したのが秀吉なら、三男の信孝を推したのは、秀吉と同じく信長にかわいがられて大名になった柴田勝家(しばたかついえ)。次男の信雄は、将軍に向いているタイプの人物ではありませんでした。勝家はこの時秀吉がまさか天下取りを企んでいるとは考えず、信孝が三法師の守役になり、岐阜城の城主を継いだことで納得し越前国(現在の石川県と福井県の北部)の北の庄城に帰りました。

皆さんご存知、北陸は雪深く冬の間は戦争ができない場所です。信長が死んだことで、保護者がいなくなったお市の方は、何処かに嫁ぐしか生きる道がありませんでした。50歳まで独身だった獣のような、柴田勝家のところに正室として嫁ぐことになったのです。

まさに「美女と野獣」のカップルでした。このカップルの成立には、三男の信孝が一躍かったといわれていますが、実は秀吉だったとの説もあります。秀吉が、三法師を思うがままに扱うのには勝家が邪魔で、さっさと越前国に戻ってほしかったようです。気持ちの優しい勝家のもとでの暮らしは、茶々親子にとっては幸せでした。

3.またもや城陥落!秀吉の寵愛を受ける茶々

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幸せは、束の間のことでした。秀吉と勝家は対立し、1588年には賤ヶ岳の戦いが勃発しました。残念なことに秀吉が勝利。お市の方は勝家と共に北の庄城で自害し、その後浅井三姉妹は秀吉に保護されます。

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