父との争い
武田信玄が生まれた戦国時代は身分が下のものが上のものを倒す下剋上の時代。名門武田家に生まれた晴信も将来が約束されているわけではありませんでした。甲斐国内の国人領主を制圧した信玄の父、武田信虎は躑躅ヶ崎館を甲府につくり甲斐の支配を固めます。しかし、信虎に対し家臣が反発。嫡男晴信(のちの信玄)に期待が集まりました。
甲斐源氏の名門、武田氏
武田氏は清和源氏の一派で源義光(新羅三郎義光)を始祖とする甲斐源氏の宗家です。平安時代末期、武田信義が平氏討伐を命じる以仁王の令旨を受けて挙兵。源頼朝に味方し、功績を上げました。一時期、頼朝と対立し勢力を失いますが信義の子の武田信光が頼朝によって甲斐守護に任じられ勢力を回復します。
甲斐武田氏には「御旗楯無」とよばれる家宝がありました。御旗は源義光から受け継いだ日本最古とされる日の丸の旗。楯無は源義光が使っていたとされる「この鎧に勝る楯はない」鎧のことです。
武田信玄を扱ったドラマなどで決定事項を先祖の前で誓う場面では「御旗楯無、ご照覧あれ」というセリフがよく出てきますが、この家宝は名門武田家を象徴する重要な品物でした。室町時代に入り、関東の戦乱に巻き込まれて甲斐も混乱しますが武田信昌の時代に守護代の跡部氏を排斥して勢力を取り戻します。
武田信虎の甲斐統一と武田晴信の誕生
武田信昌の引退後、信昌の子供たちの間で跡継ぎ争いが勃発しました。混乱した甲斐を再統一したのが信昌の孫にあたる武田信虎です。信虎は甲斐国内の有力国人やたびたび干渉する駿河の今川氏と戦いながら甲斐統一を目指しました。
1520年、信虎は有力国人の大井氏と和睦し、大井氏の娘(大井夫人)を正室に迎えます。信虎は本拠地を甲府へと移し、躑躅ヶ崎館と後背の要害山城をつくりました。大永(たいえい)元年(1521年)、要害山城で信虎と大井夫人との子として太郎、のちの武田信玄が生まれます。
『甲陽軍鑑』によると、弟の武田信繁が生まれると信虎の愛情は信繁に注がれ、太郎を疎むようになりました。ともあれ、信虎の甲斐統一は着々と進み周辺諸国に勢力を拡大する条件は整います。
初陣と信虎追放
1536年、元服した信玄は幼名の太郎から晴信へと改名します。12代将軍足利義晴から一字をもらいました。元服直後に京都の公家である左大臣三条公頼の娘を正室に迎えます。
晴信の初陣は当時の慣習から考えれば元服の直後。初陣は信濃佐久郡の海ノ口城攻防戦といわれます。その後、武田・村上・諏訪などの連合軍と信濃小県郡の豪族連合軍が戦った海野平の戦いにも従軍したでしょう。戦いは武田方の勝利に終わります。
そのころ、武田氏の家臣たちは信虎追放を計画しました。追放の理由は信虎の戦好きや弟の信繁への偏愛など様々な説がありますが、信虎と家臣たちの間が不仲であったことは間違いないようです。
家臣たちは嫡男の晴信と信虎追放と家督相続を画策します。1541年、信虎が娘婿である今川義元に会うため駿河に赴いたとき、晴信は国境を封鎖。信虎を甲斐国から追放しました。
戦国大名武田信玄
信虎を追放した晴信は甲斐国内の整備や人材登用などの内政につとめます。その一方、外交関係を見直し、信虎時代には協調していた信濃の諏訪氏・村上氏と対立。信濃出兵をおこなって領土を拡大しました。また、信虎時代には敵対していた北条氏との関係を改善。今川氏・北条氏との間に三国同盟を締結します。背後の憂いをなくした晴信は宿敵、上杉謙信との川中島の戦いに挑みました。
国内の整備
甲斐国の中心にある甲府盆地には釜無川と笛吹川という二つの河川があります。この二つの河川はたびたび氾濫を起こし、周囲の農地は水害を受けました。晴信はこの二つの河川の治水事業を行うことで農業生産力を上げようとしたのです。この治水事業は川筋を変更し信玄堤とよばれる堤防を修築する大規模なものでした。長期にわたった治水事業は成功し、新田開発をできるようになります。
また、家臣団を統制するため1547年に分国法の甲州法度之次第を発布。喧嘩両成敗などが有名な法令です。さらに、国内政策や軍事行動を可能にするための財源として黒川金山など多くの金山を開発しました。金山から取り出した金で甲州金を鋳造。軍資金や家臣たちへの褒美として利用されます。
人材活用
江戸時代に描かれた絵画に「武田二十四将図」というものがあります。武田信玄に仕えた武田家の名将たちが描かれました。「人は城、人は石垣、人は堀」という武田信玄を象徴する言葉がありますが、武田家には多くの人材が集います。
まずは、弟の武田信繁と信廉。晴信を主君へと押し上げた板垣信方・甘利虎泰。川中島の戦いで海津城を守備した高坂昌信。武田氏の信濃征服に協力した知将真田幸隆。長篠の戦まで武田家を支え続ける宿将馬場信春・内藤昌豊。川中島の戦いで啄木鳥戦法を立案したとされる山本勘助。
武田家の勢力拡大を支えた優秀な家臣たちです。彼らがいたからこそ、晴信は風林火山の兵法を実行することができたのでしょう。武田家滅亡後、多くの家臣が徳川家康に召し抱えられ徳川軍団を強化します。