歴史

逆境を乗り越えた鈴鳴り武者「仙石秀久」の波乱万丈人生とは?

ひとつ選択を間違えば死、というのが、戦国武将が常にさらされていた厳しい状況。城持ちのお殿様でも、次の日から無一文の浪人ということはままある話でした。仙石秀久(せんごくひでひさ)もまた、ひとつの失敗から無一文となってしまった武将です。しかし彼はくじけることなく、見事に大名復帰を果たしました。さて、彼はいったいどうやって返り咲いたのでしょうか?

豊臣秀吉に古くから仕え、順調に出世

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仙石秀久は、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし)と名乗っていたころから仕えた、古株の家臣です。織田信長に面構えを認められての出仕でしたが、秀吉につけられると、彼は次々と戦場で武功を重ね、ついには秀吉の家臣の中でも最初に城持ちの大名となりました。順調な出世コースに乗るまでの、彼の前半生を見ていきましょう。

兄が次々と亡くなり、四男ながら家督を継ぐ

仙石秀久が生まれたのは天文21(1552)年のこと。斎藤氏に仕えた美濃(みの/岐阜県南部)の豪族の四男でした。

上に3人も兄がいては、まず家督などまわってくるはずもありません。このため、秀久はいったん養子に出され、何もなければそこで一生を終えるはずでした。

ところが、戦で兄たちは次々と討死を遂げ、秀久は生家に呼び戻されて家督を継ぐことになったのです。

しかし、当時の情勢は、秀久が仕える斎藤龍興(さいとうたつおき)にとってはまさに逆風。相手が織田信長だったのです。

そして龍興は信長に敗れ、戦国大名としての斎藤氏も終焉を迎えてしまいました。

少年当主の秀久の身の振り方はどうなったのでしょうか。

若かりし頃の豊臣秀吉と出会う

何ともラッキーなことに、秀久は織田信長に召し抱えられました。その理由は、「風貌が勇ましいから」というものだったそうです。確かに、見た目で相手を威圧するのも大事ですからね…!

そして信長は、まだこの頃は木下藤吉郎秀吉だった後の豊臣秀吉に、少年・秀久を付けることにしたのです。役目は「馬廻(うままわり)」といい、大将の馬の周りで護衛をするというものでした。

まだ14,5歳だった秀久ですが、秀吉のそばでよく働き、各地の戦には常に付き従って功績を挙げていきました。まだ後のようなキャリアを築いていない青年秀吉にとって、秀久は年の離れた弟のような感じでもあったのかもしれません。秀吉は秀久を可愛がり、最古参の家臣として重用しました。

秀吉子飼いの家臣としてトップクラスの出世を誇る

秀吉に従い、秀久は戦国時代の中でも大きな戦には必ずといっていいほど参加しました。織田信長と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍の死闘・姉川の戦いや、秀吉による中国地方への遠征にも従軍しています。

天正10(1582)年には、本能寺の変で信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれるという大波乱もありましたが、秀吉が山崎の戦いに臨む一方、秀久は淡路方面で光秀側についた豪族を討伐し、功績を挙げました。

ただ、信長亡き後の織田政権内部で秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)が対立し、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが勃発してしまいます。この時、秀久は秀吉とは別行動を取り、四国で柴田方となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)らと対戦することになりました。四国の抑えという意味合いがあり、秀吉の信頼が厚かったことがわかります。

ここでは苦戦してしまいましたが、秀吉が勝家と対戦する間、十分に四国方面を牽制することができました。

この功績により、秀吉は秀久に淡路5万石という大きな領地を与えます。1万石で大名の仲間入りですから、十分にその資格に値する働きだったわけですね。こうして、秀久は秀吉の家臣団の中でも群を抜いたスピードで出世していったのです。

栄光からの転落、改易されて無一文に

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秀吉の家臣の中では、ずば抜けた出世を成し遂げた秀久。しかし、彼の運命を一変させることになったのが、秀吉による九州征伐においての出来事でした。秀久の独断により隊は壊滅状態となり、多くの武将を失うことになってしまったのです。秀吉を激怒させた秀久に待ち受けていたのは、厳しい処遇でした。

九州征伐の軍監に任命されるが…

天正14(1587)年、天下統一へ向けて、豊臣秀吉は九州征伐に乗り出します。相手は、九州を制覇しようとしていた島津氏でした。

この時、秀久は軍監(ぐんかん)という役目に任ぜられます。これは、戦場で各武将がどんな働きをしたか見張っている役割で、論功行賞に大いに関わる大事な任務でした。

そして彼は、先陣となった長宗我部元親や十河存保(そごうまさやす)らと、豊後(ぶんご/大分県)に上陸したのでした。

しかし、秀吉の命令とはいえ、秀久はかつて四国で采配を振るったことがあったため、長宗我部ら四国勢の士気は微妙なものだったようです。加えて、九州征伐を秀吉に要請した大友氏自体もすでに斜陽だったため、先遣隊のムードは決していいものではありませんでした。

これではいけない…と秀久は焦り始めます。そして、それが彼の運命を転落に向かわせることとなってしまったのです。

秀吉の言いつけを守らず、独断に走る

何とか士気を上げたいところですが、肝心の秀吉の本隊もなかなかやって来ません。気を揉む秀久の心のうちを見透かしたように、秀吉は彼に対して「焦らずに豊後を守って待っていろ、そのうち島津は士気を崩すはずだ」と書状を送って言い聞かせましたが、秀久にその声は響かなかったのです。

なんと、秀久は軍監の身でありながら、独断で川を渡り、対岸の島津の陣へと攻め込むことを決めてしまいました。十河存保は賛成しましたが、長宗我部元親は猛反対。それでも、秀久はそれを黙殺してしまったのです。

こうして、秀久ら豊臣の先遣隊と、島津隊による「戸次川(へつぎがわ)の戦い」の火蓋が切って落とされることになりました。

秀吉の怒りを買って改易されてしまう

戸次川の戦いは、当初、秀久たち豊臣方が優勢でした。しかし相手は、島津家でも戦上手として知られる島津家久(しまづいえひさ)。有能で統率力のある彼が指揮する島津隊は、元々士気が下がり気味で、一枚岩ではなかった豊臣方を次第に押し返していったのです。

そして悪いことに、秀久は隊から突出してしまっており、そこを狙われてしまいました。島津の精兵によって秀久隊はほぼ壊滅状態となり、長宗我部隊は元親の息子・信親(のぶちか)を、十河隊は大将の十河存保を失って、両隊ともに四国へと逃亡してしまったのです。しかも、秀久自身、自分の領地である讃岐(さぬき/香川県)まで退却してしまったのでした。

これでは、軍監の役目など果たせるわけもありません。その敗走ぶりは他の武将たちの嘲笑を買い、秀久は「三国一の臆病者」とまで言われるようになってしまったのです。

これには、秀吉が大激怒しました。

いくらなじみの深い側近であっても、許すわけにはいきません。

秀吉の怒りを買った秀久は、所領を没収され(改易/かいえき)、高野山へと追放処分となってしまいました。一城の主から一介の浪人へと転落してしまったのです。

汚名返上の秀久、「鈴鳴り武者」として奇跡の復活を遂げる

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改易された秀久は、何とかこの恥を雪ごうとチャンスをうかがっていました。そして小田原征伐の際、秀吉のところに駆けつけ、見事に功績を挙げたのです。その際、彼の装いは「鈴鳴り武者」として有名になりました。さて、秀久はいったいどうやって秀吉から見直されたのでしょうか。その後の彼の人生を見ていきましょう。

鈴鳴り武者として秀吉のもとに駆けつける

改易されてから4年後の天正18(1590)年、秀久に再起のチャンスが巡って来ます。

豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、小田原の北条氏を攻めることになりました。そして、多くの武将が小田原に集結したのです。

この機を逃す手はないと、秀久は息子やかつての家臣たち20人ほどを引き連れて、秀吉のもとに駆けつけました。

この時の秀久の装いは、周囲の度肝を抜きました。

白い房飾りのついた兜に、白絹に日の丸を染め上げた陣羽織、そして一面に鈴を縫い付けていたというのです。ド派手ですよね。しかも、鈴なんてついていたら、どこにいても音が鳴って目立つことこの上ありません。

しかし、それが秀久の覚悟のほどでした。敵兵を自分に引きつけ、死をいとわずに戦うという意思の表れだったのです。

これこそ、秀久が「鈴鳴り武者」と呼ばれるようになったと所以だと言われています。

小田原での活躍が認められ、大名復帰を果たす

この目立つ軍装で、秀久は戦場でかつてのように大活躍しました。そこには、戸次川で臆病者と笑われた姿など、まったくありませんでした。

そして、彼と彼の率いる一隊は、小田原城の出入口を占拠するなど、目覚ましい功績を挙げたのです。

秀久の活躍を耳にした秀吉は大喜びし、彼を呼び寄せ、自身が使っていた金の団扇を手渡したと言われていますよ。戦後、秀久には信濃小諸(しなのこもろ/長野県小諸市付近)5万石の領地が与えられ、彼は見事に大復活を遂げたのでした。

豊臣・徳川政権時代を生き抜く

小田原征伐後、秀久は秀吉の家臣に戻り、政権運営を支えました。この時、大泥棒の石川五右衛門(いしかわごえもん)を捕らえたという逸話も残されていますよ。

しかし、秀吉が亡くなると、秀久は時流を読んで徳川家康へと接近していきます。実は、小田原征伐の際に、秀吉に取り成してくれたのが家康だったとも言われており、少なからず恩があったようですね。

また、時代が進み関ヶ原の戦いが起きた時、家康の息子・秀忠は信濃を通って真田勢と交戦し、本戦に遅刻して家康の怒りを買ってしまったことがありました。その時、家康に秀忠を取り成したのは秀久だったそうですよ。このことで秀忠は秀久に深く感謝し、後には秀久の屋敷を訪問したり、秀久が江戸にやって来るときにはわざわざ迎えをやったりもするほどだったそうです。

領民から慕われた秀久

こうして、江戸幕府においても、自分の立ち位置を確立することができた秀久。秀吉に仕えていたわけですから、外様(とざま)だったはずですが、秀忠から信頼されていたこともあり、古くから仕えていた譜代(ふだい)大名に準ずる地位を与えられました。

また、領地である小諸で「そば」を発展させたのも彼だと言われていますよ。名物「信州そば」の発展に寄与したそうです。政治にも力を入れ、領民からは慕われました。親しみを込めて「仙石さん」と呼ばれたという逸話もあります。

奇跡の復活劇を遂げた男・仙石秀久

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慶長19(1614)年、秀久は波乱万丈だった63年の生涯を閉じました。改易から鈴鳴り武者として名をあげて復活という、奇跡のサクセスストーリーを歩んだ秀久。失敗を挽回しようという意志の強さと行動力は、私たちも見習うべきものだなと感じました。

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