- 将来の将軍と目されるも、親の愛に飢えた幼少時代
- 家康の孫として生まれ、将来の跡継ぎと目される
- 母に愛されず、家臣から軽視された少年・家光
- 乳母・春日局の献身により世継ぎの座を安泰とする
- 将軍就任、別人のように自信あふれた青年期へ
- 元服、そして将軍就任
- 「生まれながらの将軍」と強気の宣言
- 将軍の権威強化のために次々と仕組みを定める
- 弟に自刃を命じる
- 鎖国の完成
- 大奥の創設のきっかけとなる
- 幼い息子・家綱に事後を託して世を去る
- 女性より男性を好んだ若かりし頃
- 世継ぎ問題に気を揉んだ春日局
- 春日局の奔走で創設された大奥
- 姉や異母弟を大事にした心優しさ
- 不安と闘い、自らを奮い立たせ続けた家光の生涯
この記事の目次
将来の将軍と目されるも、親の愛に飢えた幼少時代
江戸幕府を創設した徳川家康の孫、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の子として生まれた徳川家光は、将来の将軍と目された若君でした。しかし病弱で大人しい性格だったため、両親の愛情は利発な弟に向けられてしまい、愛に飢えた幼少時代を過ごします。このままでは将軍の座さえ危うくなってしまった彼でしたが、それを救ったのは、乳母の春日局(かすがのつぼね)でした。
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家康の孫として生まれ、将来の跡継ぎと目される
徳川家光は、慶長9(1604)年に徳川秀忠と江(ごう)の間に生まれました。父・秀忠は徳川家康の息子で後に江戸幕府2代将軍となる人物。また、母の江は織田信長の姪であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の妹でした。
幼名を「竹千代(たけちよ)」と名付けられた家光ですが、この名前は祖父・家康の幼名と同じもの。つまりは、すでに彼こそ跡継ぎとして認められていたというわけです。
そして乳母として春日局が付けられ、将来の将軍としての教育が始まったのでした。
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母に愛されず、家臣から軽視された少年・家光
ところが、幼い頃の家光はとても病弱でした。また、吃音があったとも言われています。それに対して、2歳年下の弟・国松(くにまつ/後の忠長/ただなが)はとても利発な子供でした。このため、母の江の愛情は忠長ひとりに注がれ、家光にはほとんど見向きもしなかったそうです。それにつられて父・秀忠もまた、どちらかというと忠長を贔屓するような雰囲気もありました。
そんな様子は家臣たちにも伝わり、なんと彼らまでもが忠長に接近し、家光を軽視するような風潮になってしまったのです。
「竹千代」という由緒ある幼名を授かり、将来の跡継ぎとされていた家光がこんな扱いを受けていいわけがない…と、乳母の春日局は憂慮し、ついに奥の手に打って出ることにしたのでした。
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乳母・春日局の献身により世継ぎの座を安泰とする
なんと、春日局はひそかに江戸城を抜け出し、家康のいる駿府城を訪れ、今の状態を訴えたのです。将軍夫妻を飛び越えて大御所に訴え出るとは、何とも意表を突いた離れ業でした。
春日局の訴えを聞いた家康は、儒教の教えである「長幼の序(ちょうようのじょ/年少者は年長者を敬い、年長者は年少者をいつくしむ)」を語り、家光の方が立場は上であることを示しました。これで、家光の立場は安泰となったのです。
ここまでしてくれた春日局は、家光にとって、母以上の存在となりました。母の愛に飢えていた家光に、春日局は母よりも深い愛情を注いでくれたのです。
将軍就任、別人のように自信あふれた青年期へ
父・秀忠の跡を継いで将軍の座についた家光は、居並ぶ諸大名の前で「自分は生まれながらの将軍である」と高らかに宣言し、将軍親政を開始します。少年時代の大人しさはすでになく、自信に満ち溢れた家光の門出となりました。
元服、そして将軍就任
将軍の跡継ぎとして決定した家光は、その後は自信を取り戻していったようです。そして元和6(1620)年に元服し、正式に「家光」の名乗りをするようになりました。彼以降、家康から採られた「家」の字は、徳川家の嫡男のみが許されるものとなったのです。
元服から3年後、20歳となった家光は父から将軍職を譲られ、江戸幕府第3代将軍に就任しました。父・秀忠は大御所(おおごしょ)としてなおも君臨したため、しばらくの間は二元政治体制が敷かれることとなります。