室町時代戦国時代日本の歴史

お城ファンの筆者オススメ「小谷城」戦国山城のエッセンスが詰まったお城を徹底解説

日本国内には「城」と呼ばれるものがいくつくらいあるのか、ご存知ですか?実はなんと5万以上もあります!もちろん天高くそびえ立つ天守閣を持った大城郭もあれば、山の中にひっそりと存在する山城、所在がはっきりしないほど破壊された城など、本当にピンキリなのですよ。お城好きの筆者は、どちらかといえば、あまり有名ではないマイナーなお城が大好きなのですが、その中でも滋賀県北部に位置する「小谷城(おだにじょう)」は特に好みなのです。日本城郭協会という団体が認定している日本100名城にも選出されており、その遺構のすごさといい、眺望の良さといい、言うことなしの絶対オススメのお城であることに変わりはありません。そんな小谷城の歴史から、おすすめスポットや見どころまで、徹底的に解説していきたいと思います。

まずは小谷城にまつわる浅井氏の歴史を学んでみよう!

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小谷城は、北近江の戦国大名【浅井氏】の居城でした。小谷城を語るには、まず浅井氏の歴史を学ぶことが必要不可欠です。それでは浅井氏の興亡の歴史を紐解いていきましょう。

下克上によって北近江の実権を握った浅井亮政

浅井氏の出自については諸説あり、一般的な説として、公家の血統が元になったとされていますね。15世紀中頃、天皇の怒りを買った大納言三条公綱(さんじょうきんつな)が、北近江の守護京極氏へ預かりとなって蟄居しました。

やがて土地の娘との間に子をもうけ、その子が成長してから京極氏に仕え、浅井重政と名乗ったとのこと。そしてその曾孫が浅井氏中興の祖といわれる亮政でした。

しかし、中世歴史研究の第一人者である小和田哲男氏は、三条公綱が北近江で蟄居した記録がないことと、鎌倉時代にはすでに浅井氏の名が見えることから、おそらくは浅井氏の血統を尊いものにしたい後世の作為だろうとのこと。そして鎌倉時代にはすでに土着していた武士だろうという結論をされています。

いずれにしても亮政の代には、かなり発言権のある重臣だったことは確かで、家督争いによって京極氏が弱体化していくに従い、徐々に力を蓄えていきました。

京極高清、高広父子の家督を巡る内乱の際、亮政は高清に味方し、自らの居城である小谷城へ迎え入れました。1523年頃に小谷城は完成したとされていますが、現在も残る京極丸という曲輪は、高清を迎えるために築いたとされています。

京極高清は、守護とはいえ名ばかりで、政治の実権は完全に亮政が握りました。この動きに対して、京極氏と同族である南近江の六角氏が反発し対立することに。

1525年、好機と見た六角定頼は軍勢を率いて北近江へ出陣。対して浅井亮政は隣国の越前(現在の福井県)の朝倉氏に援軍を求めます。この時は敗れて美濃(現在の岐阜県)へ逃れますが、この頃以降、朝倉氏とは親密な関係を築いていくことになりました。

六角氏に屈服して雌伏の時を過ごす

この後も亮政は、六角氏と争いを繰り広げますが、戦っても連戦連敗という有様でした。しかし、六角氏が撤退するたびに失われた領地を取り戻すという繰り返しで、容易には屈服しなかったのです。亮政は北近江の国人領主たちをよくまとめ、主導権だけは決して失うことはありませんでした。

1542年に亮政が亡くなり、跡を継いだのはわずか16歳の久政でした。かつて父が争った京極高広が六角氏と組んで攻勢を強めると、若い久政には打つ手はありません。結局は六角氏の傘下に入って家を保つことを選択しました。

久政は暗愚の人だという評価が一般的ですが、決してそうではなく、血を流すことなく家を保つというのは現実的な選択ですし、領国基盤を築く内政に長けていたという点でも評価は高いでしょう。のちに子の長政が、北近江の覇者になる下地を久政が築いたといっても過言ではありません。

久政は、猿夜叉(のちの長政)に六角義賢の一字「賢」を戴いて賢政と名乗らせ、六角氏の重臣の娘を嫁に迎え入れるなど、お家の安泰のために尽くしました。しかし、六角氏への従属を快く思わない重臣たちは賢政を担ぎ出し、ついに久政は引退を余儀なくされました。

賢政は、名を長政と改め、妻を送り返すと、いよいよ六角氏との対決姿勢を明らかにします。1560年、弱冠16歳の長政は野良田合戦において、倍以上の六角勢を打ち破り、その軍事的才能を遺憾なく発揮しました。これが初陣だった長政は一躍その名を近隣に轟かせ、表舞台に登場したのでした。

江戸時代前期に江戸の住人、冨野治右衛門が書いたとされる「浅井三代記」に、長政の活躍の様子が語られていますね。

 

承禎ガ家臣平井加賀守婿ニテ有シガ此ノ者十六ノトシ、妻ヲ平井ガタヘ送リカヘシ、物頭共ト言合セ父ヲ追込、佐和山面ヘ勢ヲ催シ江南勢ト野良田トイフ所ニテ取合彼ノ者共ヲコトゴトク追佛ヒ押領ノ地ヲ取返シケルト聞ク。此者祖父亮政ハカクレナキ弓取ナレバ定テ今ニヨキ者ニ付従イテ有ベシ。

引用元 滋賀県立図書館蔵「浅井三代記」より

浅井長政は、六角義賢の家臣平井加賀守の婿だったが、16歳の時に平井へ妻を送り返し、家臣たちと言い合わせて父の久政を隠居させた。そして佐和山方面へ軍を押し出し、野良田という場所で六角勢と大いに戦って追い払い、六角に奪われていた土地を奪い返した。祖父の亮政は隠れもない勇将だったから、今に良き同盟者が必要になることだろう。

 

「浅井三代記」は後世の軍記物ですし、歴史的価値もほとんどないため、ニュアンスで想像するしかありませんが、長政が奮戦する勇士が想像できますよね。

織田信長と同盟。お市を妻とする

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By 不明File:Azai nagamasa.jpg 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

長政にとってラッキーだったのは、近隣の戦国大名たちが軒並み弱体化したからです。美濃の斎藤氏は、義龍が病死して龍興が跡を継いだばかり。六角氏は重臣を暗殺したために、多くの家臣たちが離反し、浅井氏に味方しました。こうして領国経営を着実に進めた長政は、名実ともに北近江の覇者となりました。

いっぽう、今川義元を討って後顧の憂いをなくした織田信長は、上洛への地歩を固めつつありました。交通の要地に位置し、武名の高い浅井長政と同盟を結ぶことは、信長にとって悲願だったことでしょう。

この時の信長の様子を「浅井三代記」は詳細に記述していますね。

 

織田信長卿、浅井長政縁者ニ望ミ給フコト

信長卿、家老ノ者共ヲ近付ケ軍評定ナドシテ打寄給フコト侍リシガ、潜ニ宜ヒケルハ其近年数度敵ト相戦フトイエドモ、不得勝利ト云フコトナシ。当国ハヤ平均ニオサメタリ。美濃国ヲモ過半手ニ入ルシカリトイエドモ、江州ノ浅井長政美濃国ヘ働出、内通スル者アリト聞ク。又、武将ト成ル身ノ望ミナレバ、一度ハ帝都ニ旗ヲ立ツベキト心底ニ思フ也面ニモ随分分別ヲ抽テ武略智略をメグラシ、万事ハ頼トゾ宜ヒケルカカリケル所ニ佐久間右衛門尉、進出テ申シケルハ、御掟ニテ御座候武将トシテハ天下ヲ平均ニ治メ給イテコソ御名ハ末代ニモ残ルベシト御請申シ上ル。

信長卿、重ネテ被促出ケルハ都迄ノ道筋江州南ニ佐々木六角承禎彼ノ者甥ニ観音寺城ニ侍フ義秀ハ軍ニブキ者ト聞ク。其上、家中思ヒアワズ同国江北ニ浅井備前守長政、此の者年若キトイヘドモ、戦ノ器量ニ相当タリタリト聞ユ。当春モ濃州御影寺ニテ斎藤右衛門佐ト合戦シテ右衛門佐ガ人持家老共ト同意アルト聞ユ。

備前守ヲ敵ニシテハ早速ニ上洛ノ義イカガナリカ、此長政に妻妾ナキト聞ユヨキ折柄ニ候ヘバ、備前守ヲ婿ニ取ラバヤト思フ也。

信長は家臣の者たちを集めて語った。「この数年、敵と戦っても負けるということがなかった。尾張国はすでに平穏に治め、美濃国の大半を手中にしたといえども、北近江の浅井長政が美濃国へ出兵しては浅井方へ内通する者も多いと聞く。また武将という身であればこそ京都へ上洛して旗を立てみたいものであるし、そのためには家臣たちの分別や武略智略といったものが必要なのだ。」

そこへ佐久間信盛が進み出て申し上げた。「殿の仰せごもっともでございます。武将として天下を治めることこそ、末代にまで御名を残すことになりましょう。」

信長は重ねて言った。「都までの道筋には、観音寺城に六角承禎(義賢)の甥義秀がいる。彼の者は戦いが苦手と聞いているし、家中の統制もバラバラとのこと。ところが北近江の浅井長政という者は、年は若いといえども戦いの器量は相当あるらしい。この春も美濃国で斎藤龍興の軍勢と戦い、斎藤方の家臣たちを味方につけたということだ。だから長政を敵に回しての上洛というのは、いかがなものであろうか。偶然にも長政には妻がいないと聞いている。この機会に長政を婿に迎えて味方に引き入れればどうだろうか。」

 

宿敵の六角氏を倒せる絶好のチャンス。長政の側も快く承知し、ここに同盟が締結されました。そして信長の妹お市の方が長政の元へ輿入れしてきたのが1567年のこと。政略結婚とはいえ、長政とお市の方の仲はたいへんに良かったと伝わっていますね。

織田の大軍と共に進軍した浅井勢は、六角勢を蹴散らし、宿願を達成します。しかし織田との蜜月関係も長くは続きませんでした。なぜなら信長が無断で朝倉氏を攻撃しようとしたからです。

姉川の合戦と信長包囲網

足利義昭を奉じて京都へ上った信長は、「上洛の命に従わない」という理由で朝倉氏の本拠、越前へ軍を進めました。金ヶ崎城手筒山城を難なく落とし、いよいよ越前中心部へ進軍しようとしたところで、背後から浅井勢が襲い掛かってきたのです。

父の久政が、織田との手切れを主張したとも言われていますが、祖父亮政の代から世話になった朝倉氏を見捨ててはおけなかったのでしょう。重臣たちもこぞって織田の不義理を詰り、事ここに至って長政も決断せざるを得ませんでした。東西から挟撃された織田軍でしたが、浅井朝倉連合軍の追撃の不手際もあって、辛くも窮地を脱します。

そして1570年6月、近江で相まみえた両軍は、姉川付近で激突しました。兵の少ない浅井勢は奮戦し、織田軍を押しまくりますが、徳川家康の援軍もあって撤退。浅井朝倉軍の敗戦だといわれているこの戦いですが、実は織田徳川軍も損害が大きく、追撃すらままならなかったため、事実上の引き分けだといえるでしょう。

この後、将軍の足利義昭とも不和になった信長は、浅井朝倉どころか本願寺、武田信玄をも敵に回し、信長包囲網という四面楚歌の状態に陥りました。

小谷城落城

信長包囲網によって、信長の運命は極まったかに見えました。ところが信長打倒のための切り札ともいえる武田信玄が突然病死してしまいます。かたや最大のピンチを脱した信長は、包囲網の隙を突いて各個撃破の作戦に出たのでした。

浅井長政が籠る小谷城にも織田の大軍が押し寄せてきました。すでに浅井氏の凋落を予見していた磯野員昌阿閉貞征らの重臣たちは離反して織田方に付き、さらに朝倉の援軍をも打ち破った織田軍は、越前まで追撃を繰り返して朝倉氏を滅ぼしてしまいました。

こうなると小谷城は孤立無援の状態に。峻険な山岳にある小谷城は、容易に落ちる城ではありませんでしたが、守る兵が少なかったことと、夜陰に紛れた羽柴勢の急襲によって分断され、落城も時間の問題となりました。

父の久政は自刃し、長政は妻のお市の方と三人の娘たちを信長の陣へ送り届けると、29歳の短すぎる一生を閉じたのです。

浅井氏の血はここで絶えてしまったかに見えますが、実はそうではありません。長女の茶々は豊臣秀頼を産み、三女の江は千姫や徳川家光を産むことになりました。長い平和の時代を迎える徳川の世にあって、浅井氏の血統は長く伝えられていくことになりました。

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明石則実