徳川家のプリンセス・千姫
江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と正室・江(ごう)の長女として生まれた千姫は、幼くして豊臣家の若き後継者・豊臣秀頼に嫁ぎました。幼少期から少女時代を豊臣家で過ごした彼女ですが、夫・秀頼は実家の徳川家に攻められ、2人は死別することとなります。最も波乱万丈だった前半生を見ていきましょう。
豊臣秀頼に嫁ぐ
慶長2(1597)年、千姫は徳川秀忠と江との間に生まれました。
当時は豊臣秀吉が亡くなり、政権運営が幼い秀頼ではこころもとない状況。そして、最も有力な存在となった祖父・徳川家康は、虎視眈々と天下取りを視野に入れて動き始めたところでした。
そんな中、千姫は豊臣家に望まれ、秀頼のもとへ輿入れすることとなったのです。当時まだ7歳と結婚には早すぎる年齢でしたが、豊臣サイドとしては、千姫は正式な理由で迎えることができる人質だったわけですね。ちなみに、お互いの母(江と淀殿)が姉妹だったこともあり、2人はいとこでもありました。
政略結婚でしたが、千姫と秀頼は仲睦まじい夫婦だったようです。
女性の成人の儀式ともいえる鬢削(びんそぎ)を、秀頼が手ずから行っていたという話も残されており、少年・少女時代を共に過ごした2人は、良きパートナーとして将来を共にするという思いを新たにしていたのかもしれません。
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大坂城落城と秀頼との別れ
しかし、時代の流れは確実に徳川家康に有利となっていました。
関ヶ原の戦いの後、江戸幕府を開設して天下人同然となった家康は、ついに豊臣家との対決に乗り出します。その結果、大坂の陣が起こったわけです。
慶長20(1615)年、大坂夏の陣でついに豊臣方は追いつめられ、家康の前に敗北することとなりました。総大将である秀頼やその母・淀殿は大坂城で自害を選びます。
千姫はと言うと、燃える大坂城から救出され、徳川家に戻ることとなりました。
しかし、彼女はただ言われるがままのお姫様だったわけではありません。
実は、秀頼には側室との間にもうけた子供がいたのですが、千姫はその女児を自分の養女とすることを主張し、命を助けたのです。すでにこのとき、彼女はひとりの女性として立派な成長を遂げていたのでした。
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再婚と幸せな新婚生活
最初の夫・豊臣秀頼とは悲劇的な別れ方をした千姫ですが、その後、本多忠刻(ほんだただとき)と再婚します。美男で優しい夫に恵まれた彼女は、ようやく穏やかな生活を手に入れることができました。しかし、それも長くは続かなかったのです。ここでは、千姫の2度目の新婚生活を見ていきましょう。
本多忠刻との再婚
千姫が大坂城から救出されたのは、祖父・徳川家康の命令だったといいます。千姫はその時に祖父や父に秀頼の助命を嘆願したとも言われていますが、果たされませんでした。
失意に沈む千姫を見て、家康は彼女の新たな身の振り方を思案します。そして、彼が可愛い孫娘の再婚相手に選んだのが、本多忠刻という若き大名だったのです。彼は武芸に秀で、眉目秀麗と評判でもあり(千姫が見初めたという説もあるほど)、なおかつ血筋も文句なしでした。家康の重臣である徳川四天王のひとり・本多忠勝(ほんだただかつ)の孫でもあったのです。
こうして、元和2(1616)年、千姫は桑名(三重県桑名市)にいる忠刻のもとへ輿入れすることとなりました。
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