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織田・徳川・豊臣など戦国大名を支えた四天王とは?各主君別に一挙紹介

強力な戦国大名には、それを支えるたくさんの有能な部下たちがつきものです。その中でも特に有能な4人を「四天王」と呼ぶことがあります。織田信長や徳川家康、武田信玄などにも四天王と呼ばれる武将たちが仕えていました。その四天王たちはいったいどんな武将だったのか、戦国に伝わる数々の四天王たちをご紹介したいと思います。

1.天下をほぼ手に入れた男・織田信長の快進撃を支えた織田四天王

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織田信長の躍進を支えた織田四天王は、柴田勝家(しばたかついえ)・滝川一益(たきがわかずます)・丹羽長秀(にわながひで)・明智光秀(あけちみつひで)の4人です。それぞれが独立した戦国大名としても十分やっていけるほどの実力を持った武将でしたが、信長の死後には生き方が分かれました。では、織田四天王について見ていきましょう。

1-1.織田家筆頭家老の豪傑・柴田勝家

織田四天王の筆頭・柴田勝家は、信長陣営の中でも筆頭家老として家臣たちのトップに立った武将です。もともとは信長の弟・信行(のぶゆき)に仕えており、信長に敵対したこともありましたが、許された後、信長に仕えるようになりました。それからは、勝家は「鬼柴田」と呼ばれる元来の勇猛さで戦功を積み重ね、実力主義の信長から評価されるようになっていったのです。

その後、北陸方面の司令官に任命された勝家は、一向一揆や上杉氏の根付くかの地を攻略し、織田家の筆頭家老にまで出世します。しかし、本能寺の変の際には上杉勢と交戦中だったため駆け付けられず、豊臣秀吉に後れを取ってしまいました。

信長の後継者を決める清州会議(きよすかいぎ)でも、結局秀吉の意見が通り、勝家はやがて彼と対立するようになっていきます。そして起きた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れた勝家は、再婚したばかりの信長の妹・お市の方と共に自害して果てました。

落城間際、彼は家臣たちに対し、「離反した者たちを恨むことはない。ここまでついてきてくれた者たちが生き延びるというなら、それは喜ばしいことだ。もうお前たちに何も報いてやれないことを詫びたい」と言ったそうです。猛将でありながらも情も深い名将でした。

1-2.鉄砲の名手・滝川一益

滝川一益は、忍者の一族とも、鉄砲の名手とも伝わる武将です。皆が討ちあぐねた人物を、あらかじめ穴をあけておいた柱の向こうから撃ち抜いて倒したという逸話もあります。信長のもとで伊勢攻略や長嶋一向一揆、長篠の戦いに参加して功績を積み、関東方面を任される武将となりました。そこでは後北条氏や佐竹氏など有力武将と対等に交渉し、信長の関東支配を着実に進めていきます。

しかし、関東という遠方であったため、本能寺の変勃発後の信長の仇討ちや後継者問題を解決する清州会議に参加することがかなわかったのが、一益の不運でした。このことで存在感を低下させてしまうと、秀吉と対立する柴田勝家に与しますが、勝家も敗れてしまったためにやむなく秀吉に降伏。その後秀吉に仕えたものの、目立った活躍はなく、そのまま生涯を終えました。関東という場所を拠点にしていなければ、もっと違う立場になれたかもしれません。

1-3.信長からの信頼は絶大!なくてはならない丹羽長秀

丹羽長秀は、気に入らなければ家臣を手討ちにすることもいとわない信長にさえ絶大な信頼を置かれていた武将です。その働きは派手ではありませんでしたが、堅実そのもの。信長陣営において欠かせない人物として、当時から高い評価を受けていたそうです。信長の姪を妻とし、息子には信長の娘をもらうなど、信長とは親密な関係でした。あの信長が、「長秀は友であり兄弟だ」と言うほどだったそうですよ。

長秀は戦にも参加しましたが、最も能力を発揮したのは政治面でした。信長を象徴する安土城の建設の中心となりましたし、戦における補給や戦後処理などは彼が一手に担ったのです。地味ながらも欠かすことのできない仕事で、それを任せられる信頼を信長から寄せられていたのでした。

信長の死後は豊臣秀吉に従うようになった長秀ですが、その死には様々な異説が存在します。信長にとって代わろうとする秀吉に憤激して自害したとか、腹の寄生虫の痛みに耐えられずに腹を裂いて死んだとか…地味で穏やかな印象からは想像できない最期を遂げたのだとしたら、彼もまた信長の四天王らしさを持っていたのかもしれません。

1-4.信長に信頼され、信長を討った男・明智光秀

明智光秀といえば、誰もが知る本能寺の変の当事者。最大の裏切り者としての悪名ばかりが伝わっていましたが、近年はそれが見直されてきていますね。

光秀は出自や生まれた年もはっきりしていませんが、明智氏は土岐氏や斎藤道三に仕え、道三と息子・義龍(よしたつ)の内紛によって一家離散となってしまったようです。その後の光秀は越前の朝倉義景に仕え、百発百中の鉄砲の腕と確かな眼力で召し抱えられたと伝わります。そこで都を追われていた後の室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と出会い、関わりをもつようになると、義昭が上洛する際に、織田信長との仲介役に選ばれ、光秀は両者に仕えるようになるのです。

信長のもとでは政務・軍事の両方で才能を発揮し、過労で倒れるほどあちこちの戦場を飛び回りました。信長からの信頼も得て、まさに信長の片腕となったのです。

しかし彼は、突如として本能寺の変を起こし、信長を襲撃し、その命を奪いました。理由は今もはっきりとしておらず、このために様々な憶測が生まれています。

信長を倒し、自ら天下に手をかけた光秀ですが、彼に味方する者は少なく、やがて豊臣秀吉によって討たれ、その天下はわずか10日ほどで終わりを告げ、「三日天下」と呼ばれました。

昔は「逆賊」の代名詞だった光秀ですが、近年では大河ドラマの影響などもあり、再評価がなされています。

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