【小京都・七尾】で絵の才能を育む
稀代の絵師【長谷川等伯】といえば、能登国七尾(現在の石川県七尾市)とは切っても切り離せません。七尾こそ若き等伯を育み絵の才能を開花させた土地だったわけですから。そして彼をめぐる人々との出会いが彼の人生を決めたといっても差し支えないでしょう。
華やかな畠山文化に触れる等伯
1539年、等伯は能登国守護畠山氏の下級家臣だった奥村文之丞宗道の子として、七尾で生まれました。幼名を又四郎といい、後に染物屋を営む長谷川家の養子となりました。
養父の長谷川宗清、そして実家の奥村家も共に日蓮宗寺院を菩提寺としていて、幼い頃から仏絵に触れる機会も多かったのではないでしょうか。そして宗清から絵を教わったと考えられています。
当時の能登は7代畠山義総の時代で比較的政治も安定しており、京から多くの公家や文化人たちが能登を来訪したと考えられ、京風を模倣した華やかな文化は【畠山文化】とも呼ばれていますね。等伯もまた幼少期から青年期にかけて洗練された文化に触れながら成長したのでしょう。
やがて長谷川信春という名で能登や越中(現在の富山県)の法華宗寺院を中心に仏絵師となり、絵画の腕を磨いていったのです。
注目されるべき作品に、富山県氷見市の蓮乗寺に現存している【宝塔絵曼荼羅】という仏絵があります。ふつう絵には作者の銘を入れますが、この絵には右下には宗清の銘が。そして左下には信春(のちの等伯)の銘が書き入れてあり、養父の宗清が主体となって描き、養子の信春が補助的に描いた形跡があるのです。いわば共同制作となっていたのですね。注目されるべき貴重な作品となっています。
様々な手法の絵に触れ、仏画以外に画域を広げていく
まだ信春と名乗っていたこの頃の等伯は、本業とする仏画以外にも折に触れて絵画を目にする機会に恵まれ、生まれ持った好奇心と努力によって才能を開花させていくのです。
この時期、畠山家や総持寺などで、様々な手法の絵画を目にする機会があったことを「等伯画説」は記しています。「等伯画説」とは等伯が後年に口述した逸話などをまとめた回想録のことですね。
「黙庵於大唐ニ被書タル絵多之、猿候ヲ四幅、一対ニ書テ日本ヘ渡タルアル也。能州ノ屋堅御所持也キ。」
「能登ニくじ志ト云在所有之、総持寺ト云寺有之ソコニ雪舟ノ十六羅漢アリ。唐紙一枚ツツニ墨絵也。加賀ノ富樫絵ニスキ給、雪舟画修行ノ時、等春ヲツレテ到テ彼国ニ雪舟ハヤカテ上洛。等春ハ三年逗留也。」
引用元 「等伯画説」より
現代語訳
「黙庵(鎌倉~南北朝時代の仏絵師)が描いた猿候四幅を畠山の御所様(殿様)が所蔵しておられるとのことで見せてもらった。」
「能登のくじ志という所に総持寺があり、雪舟(室町時代前期の絵師。水墨画の大家だった)が描いた「十六羅漢」がそこにあるということで見せてもらった。それは唐紙一枚一枚に描かれている水墨画だった。
雪舟は等春(雪舟の弟子)を連れて加賀国へやって来て、守護の富樫氏の下で修業をしたそうだ。雪舟はやがて上洛したそうだが、等春は三年もの間、逗留したらしい。」
このように戦乱のない平和な能登では、名画を鑑賞することもでき、等伯の画域を広げるにはうってつけの環境だったことがうかがえるのです。
そして上洛。雌伏の時を経て遅咲きの花へ
若い等伯を育み、その才能を開花させてくれた能登七尾の地にも、戦国争乱の波は否応なしにやって来ました。「このまま七尾にいてはいけない。」そう考えた彼の決断は吉と出るのでしょうか?そして上洛し、長い雌伏の時を経て大画家【長谷川等伯】が誕生するのです。
上洛後の京都で初仕事を果たす
名君といわれた畠山義総の死後、能登は血なまぐさい戦乱の巷と化しました。重臣のクーデターに端を発した混乱は当主畠山義綱・義続父子の追放へと発展し、奪回しようとする守護側と重臣側との内乱がいつ果てるともなく続きました。
等伯自身もその影響で仕事が激減。故郷で画業を続けることが困難になったのです。それに加えて養父母が相次いで死去し、それを契機に妻子とともに上洛を志しました。等伯はすでに33歳。その歳での再出発はかなりリスクが伴うものですが、彼はあえて大きな舞台へ挑むことで自分を奮い立たせたのでしょう。
しかし江戸時代に編纂された書物「扁額規範」によれば、等伯はそれ以前に二度ほど京都を訪れていたようで、収集した情報を元に自信を持って上洛を決意したのでしょう。
京都に着いた彼がまず手掛けたのが、実家の菩提寺の総本山だった本法寺8世日堯(にちぎょう)上人の肖像画でした。日堯は等伯が上洛して間もなく死去しますが、京都へ来たばかりの等伯たちに色々と協力をしていたようですね。その恩人の肖像画を描けるということは、等伯にとっても大変名誉に感じたことでしょう。
しかしこの後、等伯の行跡はぷっつりと途絶えることになります。
最大の恩師【千利休】との出会い
日堯上人の肖像画を描いたのち、17年もの間その音信が途絶える等伯ですが、当時、最大派閥だった狩野派に籍を置いていたともいわれていますね。なぜなら江戸時代前期の画史書「丹青若木集」や「本朝画史」には狩野派の技巧を学び、己の一派を築いたとの記述があるからです。
そうした中、等伯と親しい日通上人(本法寺10世)が堺出身だったこともあり、盛んに堺の商人たちと交わりを深めました。裕福な商人たちが所蔵する中国名画を目にする機会もあったことでしょう。その中の一人に茶道の大家として名高い千利休がいました。
等伯51歳の1589年のこと、彼の腕を見込んだ千利休はある依頼をしました。それは京都大徳寺にある三門の天井絵と柱絵を描くこと。さらに「山水図襖」という襖絵を描くことで大きな評価を得ました。この大徳寺での仕事で名声を上げた等伯は、一流絵師への道を一歩踏み出すことになりました。また狩野派を離れ「等伯」の号が使われ始めたのも、この頃のことです。
狩野派との確執とは?
狩野派に属して絵を学びんでおきながら着々と名声を手にしていく等伯に対して、狩野派の人々が快く思うはずがありませんでした。その対決は思ったよりも早く訪れることになったのです。
1590年、豊臣秀吉が造営していた天皇の奥住まいに飾る障壁画の制作を依頼された等伯は、勇躍してその仕事に取り掛かろうとします。ところが皇室や宮中の仕事をこれまで一手に引き受けてきた狩野派が黙って納得するわけがありません。
狩野派のボスだった狩野永徳は、有力公家だった勧修寺家に取り入って横やりを入れ、ついには等伯らの仕事を奪い取ってしまったのでした。
一見すると非道な仕打ちに見えるかも知れませんが、狩野派がそれほど長谷川派を警戒していたことと、その実力を認めたからこその所業だったことを思えば、やはり等伯の実力は相当なものだったと思わざるを得ませんね。