日本の歴史江戸時代

徳川家康の家来になったイギリス人「三浦按針」ってどんな人?わかりやすく解説

私が「三浦按針(みうらあんじん)」という人を知ったのは、三浦按針をモデルとした「ジェームズ・クラベル」の小説を原作、にアメリカで制作されたテレビドラマ『将軍 SHOGUN』を観た時でした。当時はネットなんてありませんでしたので百科事典で調べたら、本当に徳川家康の家来になったというイギリス人という実在の人物だと知りましたよ。この不思議な人をぜひ知ってもらいたいと思いますので、よろしくお願いします。

ウィリアム・アダムスとして生まれて

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三浦按針の本名は、ウィリアム・アダムズといいます。1564年、イングランド南東部のケント州ジリンガムで生まれました。お父さんは船乗りでしたが、12歳の時に亡くなってしまい、ロンドンの東にあるライムハウスというところへ行き船大工に弟子入りすることになったのですよ。

人生のターンポイント

しかしお父さんの血をひいたのか航海術に興味をもったので、イギリス海軍に1588年に入隊したのですね。イギリス海軍では、無敵艦隊と称されていたスペイン海軍との「アルマダの戦い」で、海賊出身の提督「フランシス・ドレイク」指揮のもと、貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長として参戦していますよ。

1589年にメアリー・ハインという女性と結婚して、娘デリヴァレンス・息子ジョンができますが、その頃には軍を退役して、バーバリー商会に入社して北方やアフリカなどを航海士や船長として航海していたので、ほとんど家にいなかったといいます。

航海していくうちに色々んな船乗りと交流していくことになりました。その中で知り合ったオランダ人から「ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探している」という話を聞きます。そこで弟のトマスたちを誘ってロッテルダムへと行くことになったのですね。これが彼の人生を大きく変えることになります。

日本への航海

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ウィリアム・アダムズたちは早速採用されました。船団は5隻の帆船で、ウィリアム・アダムズは旗鑑の「ホープ号」の航海士となります。1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航しましたが、航海はとても大変なこととなるのですよ。

日本漂着

マゼラン海峡を渡る頃にウィリアム・アダムズと弟のトマスはリーフデ号に移っていたので大丈夫でしたが、2艦はポルトガルやスペインに拿捕、最初乗っていたホープ号は太平洋の航海中に沈没、残りの1隻ははぐれたためにロッテルダムに帰ってしまったのですよ。

生き残ったリーフデ号。しかしその後の航海も順調ではなくて、途中寄った港では赤痢などが蔓延していたり、原住民から襲撃されたりして惨憺たる状態になったのですよ。その襲撃で弟のトマスは亡くなってしまいました。

そして1600年4月29日、黒島(現・大分県臼杵市の臼杵湾内の島)に漂流します。この悲惨な航海で日本にたどり着いた時には、110人だった乗組員が24人になってしまったのですよ。

当時の日本事情

ウィリアム・アダムズが着いた1600年というのは日本の暦では慶長5年(以後は日本の暦で)。この時代といえば、天下分け目の「関ヶ原の戦い」があった年です。漂着したのは、その半年前ですよ。えらい時に漂着したものですね。

関ヶ原の戦いをおさらいをしましょう。慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなる時に息子の豊臣秀頼が幼いため、勢力のある徳川家康を押さえるために五大老・五奉行などを作ったのですが、その遺言を無視して好き放題のことをしてきた徳川家康を討とうと、五奉行の石田三成が反徳川勢を集めて関ヶ原で行った戦いです。その年の3月といえば、上杉景勝との関係が悪化して、その家老の直江兼次が「直江状」を徳川家康に送って挑発していたりして一触即発のような状況になっていたのですよ。

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紫蘭