室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる斎藤道三の生涯!なぜ父を殺し子に殺された?なぜ悪党なの?わかりやすく解説!

乱世のあるところ、常に悪人あり。日本の戦国時代にも梟雄(きょうゆう)として名を馳せた悪人がいました。「宇喜多直家」、「松永久秀」、そして「斎藤道三」。これらの人物たちは「戦国の三悪人」といわれ、それぞれ主家を滅ぼしたり乗っ取って実権を奪い、歴史に悪名を残しています。しかし、彼らは本当にそんな大それた悪党だったのでしょうか?実はいずれも江戸時代の後付けの話や、小説の中で悪人として仕立て上げられた経緯があるのです。今回は「美濃の蝮(まむし)」と異名を取った斎藤道三にスポットを当て、彼の真実の姿を深く掘り下げていきたいと思います。

1.新史料の発見と、これまでの通説の否定

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歴史とは、たゆまぬ研究や発見によって絶えず通説は変わるもの。実は斎藤道三の真実の姿も、一介の油売りから身を興して一代で戦国大名に成り上ったという説が現在は否定されています。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも親子二代で国盗りしたという設定になっていますね。まずはその謎を解き明かしていきましょう。

1-1.現在の通説となった新しい史料とは?

1964年から作業が始まった岐阜県史の編纂の過程で、「六角承禎条書写(ろっかくしょうていじょうしょうつし)」という新史料が発見されました。

これは戦国時代真っただ中の1560年に、南近江(現在の滋賀県南部)の戦国大名だった六角承禎が、家臣の蒲生定秀に宛てた書状で、そこにはなんと斎藤道三の経歴が書かれていたのです。

近江と美濃はちょうど隣国にあたりますから、美濃の情勢は逐一、六角氏の耳に入ってきたのでしょう。

「六角承禎条書写」の内容と現代訳

 

「彼斉治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷り出、濃州錯乱之みぎり、心はしをも仕候て、次第にひいて候て、長井同名になり、又父左近太夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名に成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎殿へ申合、井口へ引寄申、其外兄、事に左右をよせ、生害させ弟、或いは毒害、或いは隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事」

 

現代語訳

「現当主(道三の息子斎藤義龍)の祖父は新左衛門といい、京都妙覚寺の僧だった。西村という姓を名乗り、土岐氏(当時の美濃守護)の重臣だった長井弥二郎の元へ仕えた。

美濃国が戦いで乱れていた時、大いに活躍して身分を引き立てられ、名族長井の姓を承ることとなった。その跡を継いだ息子の左近太夫(斎藤道三)は、主筋の長井家の当主を殺して乗っ取り、重臣としての役目も奪った。

そして断絶していた名族斎藤氏の名跡を継ぎ、土岐頼純を婿にして勢力を拡大した。頼純が早死にすると(おそらく道三が殺した)、今度は頼純の叔父土岐頼芸と申し合わせて、土岐氏に連なる有力者たちを井ノ口(現在の岐阜市)へ呼び寄せては毒殺や暗殺を繰り返して成り上っていった。その罪は歴然のこと」

1-2.親子二代で国盗りを果たした道三

実際に美濃へやって来て頭角を現したのは父の新左衛門であり、その跡を継いで権謀術数の限りを繰り広げたのが息子の道三だったということになるのです。

一介の油売りから身を興して武士となったのが父親で、息子は土岐氏重臣の身分を得た上で、のし上がっていったというのが真相でした。

大河ドラマの中では、道三役の本木雅弘さんが熱演されていましたが、カネにがめつく狡猾な性格であるものの、実は美濃をこよなく愛するがゆえだったというストーリーでした。

2.美濃国主土岐氏と道三

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道三は土岐氏を追放して、美濃を奪うことになるわけですが、そもそも美濃国主土岐氏とはどういった一族なのか?なぜ道三に狙われたのか?詳しく解説していきましょう。

2-1.古くから美濃に君臨していた土岐氏

土岐氏は当時の武家の中でも指折りの名族で、美濃だけでなく関東地方にも一族が住んでいました。明智・金森・千石といった戦国時代に有名となった氏族も多く輩出しています。

土岐氏はそもそも平安時代末期には美濃に土着していて、鎌倉時代になると武家の重鎮として勢力を伸ばしました。その後、室町時代に入ると足利将軍とも繋がりを深くし、応仁の乱でも主力を務めるほどの活躍ぶりだったのです。

しかし、常にお家騒動が絶えない家柄だったらしく、応仁の乱では一族が分かれて戦っていますし、道三が成りあがった頃には土岐頼武と頼芸による壮絶な家督争いが起こっていました。

2-2.道三が継いだ斎藤氏とは?

道三が名乗った斎藤氏ですが、昔から土岐氏家老の格だった家柄で守護を補佐する役目を持っていました。歴代の当主では斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が有名で、応仁の乱の最中には留守をよく守り、国の平穏を保っていたそうですね。

しかしその後の斎藤氏は守護代などを務めるものの、土岐氏の家督争いの介入して次第に勢いがふるわなくなり、斎藤彦四郎の頃に没落してしまったそうです。

やがて長井の姓を名乗っていた道三によって家を乗っ取られてしまいました。長井・斎藤という二つの名家を手中に収めた道三にとって、残る敵は土岐氏しかありません。

2-3.ついに美濃の実権を握った道三

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By 不詳 – 鷲林山常在寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

時系列で見ますと、1533年頃に父から長井氏分家の家督を譲られた道三は、本家の当主長弘を殺害して本家を乗っ取り、続いて土岐頼芸を担ぎ出して、現守護の頼武を追い落とすクーデターに成功。実質上は美濃の実権を握るに至りました。

頼芸は守護になったとはいえ操り人形に過ぎず、怠惰で贅沢な暮らしさえできれば満足するような人物でした。

1538年、没落していた斎藤家の名跡を継いだ道三は、この頃に居城の稲葉山城(のちの岐阜城)を大改修し、名実ともに難攻不落の要塞を造り上げました。後年、織田信長の父信秀に攻められますが、ビクともしていません。

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