安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

織田・徳川・豊臣など戦国大名を支えた四天王とは?各主君別に一挙紹介

3-2.慎重すぎて秀吉の怒りを買った尾藤知宣

秀吉最古参の家臣である尾藤知宣は、軍事に長じ、小牧・長久手の戦いや四国征伐で順当に功績を積み上げていきました。

九州征伐では軍の監視役となりますが、慎重であるがゆえに味方に援軍を送るのをためらい、敗走する敵に対して「深追いは禁物」と追撃せず、ついには逃がしてしまいます。このため、秀吉の怒りを買って追放されてしまいました。

その後、敵将が秀吉に許されていたのを見て、「もしや自分も…」と秀吉のもとに現れて許しを請いましたが、秀吉はかえって激怒し、知宣を手打ちにしてしまいました。

3-3.羽柴四天王の中で最も長く生きた戸田勝隆

戸田勝隆は信長の家臣から秀吉の家臣へと転じ、羽柴四天王の中でも「これを超える軍功の士あらず」と称された武将でした。小牧・長久手の戦いや四国征伐、九州征伐にも従軍し、同僚の神子田正治や戸田勝隆が秀吉の怒りを買う中、順当にキャリアを重ねます。

朝鮮半島への文禄の役では、敵軍の撃破に貢献しましたが、そこで病にかかり、帰途で病没してしまいました。

3-4.秀吉や竹中半兵衛にも惜しまれた宮田光次

宮田光次は秀吉の四天王の中でも三木合戦で命を落とし、最も早くに亡くなりました。

彼の死からしばらくの後、秀吉は「自分の家臣団は昔に比べて栄えただろう」と満足げに話します。周りの者は「3倍」「5倍」と口々にほめそやしますが、軍師・竹中半兵衛のみ、「昔より劣ってしまいました」と答えました。秀吉が「なぜだ」と問うと、半兵衛は「宮田光次が死んでからというもの、我々家臣団は昔より劣ってしまったのですよ」と答え、秀吉も「確かにそうだな…」と、彼の死をいつまでも惜しんだそうです。

4.戦国最強の武田軍団の原動力・武田四天王

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武田信玄率いる武田軍団は、戦国最強をうたわれた無敵の軍勢でした。それを率いたのが武田四天王。武田四名臣とも呼ばれます。歴戦の猛将がずらりと並び、その顔触れは馬場信春(ばばのぶはる)・内藤昌豊(ないとうまさとよ)・山県昌景(やまがたまさかげ)・高坂昌信(こうさかまさのぶ)です。では、武田四天王のすごさをご紹介しましょう。

4-1.「不死身の鬼美濃」と称された馬場信春

馬場信春は、武田信虎(たけだのぶとら)・信玄・勝頼の3代にわたり仕えた譜代の家老です。戦場では「不死身の鬼美濃(おにみの)」と称されるほどの猛将で、最後の戦いとなる長篠の戦いまでに70以上の戦に参加しながらも、傷を負うことがなかったと伝わります。

武田・上杉の死闘である川中島の合戦や、後北条氏との闘い、徳川家康との三方ヶ原の戦いなどに参加し、その強さを見せつけました。

信玄の没後は勝頼に疎まれますが、長篠の戦いでは敗色濃厚の中で内藤昌豊としんがり(隊の最後尾)をつとめ、わずかな味方で敵軍を食い止めて勝頼を逃がし、壮絶な討ち死にを遂げました。敵からも「馬場美濃守(ばばみののかみ)の働き、比類なし」と称えられるほどの最期だったそうです。

4-2.信玄からの信頼は絶大・内藤昌豊

信玄・勝頼に仕え、信玄の側近として数々の戦いに参加した内藤昌豊は、「真の副将」として信玄から絶大な信頼を寄せられた武将でした。多くの戦いで功績を挙げながらも、活躍の証である感状(かんじょう)は一度も与えられたことがなかった昌豊ですが、信玄は「あいつほどの者ならば、常人よりも働いて当然だろう(だから感状を与えないのだ)」と言ったそうです。それに対し、昌豊は「戦は大将の指揮に従ってこそ勝てるもの。個人の手柄にこだわるのは小さいことだ」として意に介する様子もなく、信玄の真意をきちんと理解していました。両者の間には誰よりも強い絆があったのです。

そして昌豊は、長篠の戦いで馬場信春とともにしんがりとなり、討死を遂げました。

4-3.元祖赤備え・山県昌景

信玄の側近として仕え、「源四郎(げんしろう/昌景の通称)の赴くところ敵なし」と呼ばれるまでの武将に成長した山県昌景は、赤い軍装で統一した「赤備え」を率い、最強の代名詞となりました。外交にも長けていたと伝わります。

信玄は死の間際、昌景に「自分の死を3年隠し、勝頼を補佐せよ」と遺言を残すほど、彼を信頼していたようです。しかし昌景をはじめとした武田四天王は旧政権の遺物として勝頼には疎まれ、遠ざけられたとも伝わります。長篠の戦いの際には、馬場・内藤とともに撤退を進言したものの、勝頼から退けられたとも言われており、これで昌景は覚悟を決めて討ち死を遂げました。

最強の赤備えを率いながらも、彼自身は非常に小柄で風采の上がらない男だったといわれています。そして彼の赤備えは徳川家康の四天王・井伊直政に受け継がれ、最強の名を継続していくのです。

4-4.上杉氏との前線を終始受け持った高坂昌信

信玄の側近として仕えた高坂昌信は、信玄最大のライバル・上杉謙信との前線基地となる海津城(かいづじょう)の守りを任されていました。つまり、強敵との対峙を任せられるほどの人物で、信玄から信頼されていたわけです。川中島の戦いや三方ヶ原の戦いには参加しましたが、長篠の戦いには参加しておらず、生き延びました。そして、敗れた勝頼に、外交方針の転換や家臣再編など、武田が今後生き延びるための献策をしたと伝わります。

その後も上杉氏の内紛に伴って武田との同盟が成立した際にはその裏で奔走するなど、外交方面では大きな役割を果たしました。

5.軍神・上杉謙信をサポートした上杉四天王

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上杉謙信の強さは「軍神」と例えられるほどでしたが、彼の下にはやはり、上杉四天王と呼ばれる有能な武将たちがいました。柿崎景家(かきざきかげいえ)・直江景綱(なおえかげつな)・宇佐美定満(うさみさだみつ)・甘粕景持(あまかすかげもち)の4人です。それぞれの得意分野で能力を発揮した彼らについてご紹介します。

 

5-1.謙信の信頼あつい重臣筆頭・柿崎景家

上杉屈指の勇将・柿崎景家は、その名を聞いただけで敵が逃げ出すほどだったそうです。長尾景虎(ながおかげとら)を名乗っていた謙信と、兄・長尾晴景(ながおはるかげ)の家督争いの際には謙信を支持し、仕えるようになりました。川中島の戦いでは先鋒をつとめ、武田本陣に攻め込み、壊滅寸前にまで追い込んでいます。

家柄も良く、知恵が回り教養深い人物だったため、謙信からは信頼され、家臣の筆頭格として遇されました。しかし、織田信長に通じたという疑いをかけられ、処刑されたと伝わっており、その最期は謎に満ちています。

謙信が敵方の姫・伊勢姫と恋仲になったときには、その関係を絶たせたという逸話もあるそうです。

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