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戦後日本を揺るがした「浅間山荘事件」とは?わかりやすく解説

1960〜70年代に活動していた学生運動。そんな学生運動が徐々に衰退していくときに起こってしまったのがこの浅間山荘事件でした。 果たしてこの浅間山荘事件はどんな事件だったのでしょうか?今回はそんな浅間山荘事件について解説していきたいと思います。

浅間山荘事件とはどんな事件なのか?簡単に概要を解説

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浅間山荘事件とは1972年2月19日から2月28日にかけて起こった連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢町の浅間山荘に人質をとって立てこもった事件です。

この浅間山荘事件の攻防は219時間にも及び、、日本で起こった人質立てこもり事件では2017年9月現在最高時間になっています。

最終的に犯人グループは逮捕され、人質は無事に解放されました。

ちなみに、この時に国民に強い印象を与えたのがのがこの時期に新発売されたばかりのカップラーメン。機動隊員が食べていた姿がテレビで映し出され、これがカップラーメンが普及する一つの理由となりました。

そもそも浅間山荘事件を起こした連合赤軍とはどんな組織なのか?

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日本国民に強い印象を与えた事件である浅間山荘事件と山岳ベース事件。この事件はこの時日本国内で活動していた連合赤軍によって引き起こされた事件でした。

一体なぜ、この連合赤軍は浅間山荘事件と山岳ベース事件を起こしてしまったのか?

まず最初は連合赤軍が浅間山荘事件をここまでの経緯について見ていきたいと思います。

連合赤軍の結成

1945年に日本が敗戦するとこれまで政府によって弾圧されてきた社会主義運動は再び陽の目を見ることができるようになりました。

これを受けてこれまで地下で活動していた日本共産党と日本社会党は再び武力を用いて政権を打倒して社会主義革命を起こす武装闘争を実行に移すことになります。

しかし、この動きを危惧したGHQは日本共産党を追放するレットパージを敢行。

どうにも行かなくなった日本共産党は1955年の第6回全国協議会でこれまでの武力による革命から議会での選挙を通じて国民の支持を受けて社会主義革命を起こすという路線に変更。

日本社会党に続いて日本共産党も武力闘争路線を変更させたということ武装革命を目指していた学生党員から不信感を募らせるようになり、この学生党員は日本共産党とは別にこれまでの武力闘争路線を継続させる新左翼派と呼ばれる派閥が誕生しました。

こうして新左翼派は武力闘争を起こすために学生運動や安保闘争などに従事。

1970年までにほとんどの大学にて学生運動が行われていき、一定数の支持を受けていました。

よど号ハイジャック事件と大菩薩峠事件

こうして新左翼派が学生運動に従事していくようになりましたが、1970年代に入ると国民の生活は豊かになっていき、学生運動は下火に追い込まれてしまいました。

そんな中、ゲリラ組織と化していた新左翼組織の一つである赤軍派と革命左派がしだいに事件を起こしていくようになります。

その事件の一つがあのよど号ハイジャック事件でした。

この頃の赤軍派は国際根拠地論という国外の亡命基地を立てる必要があると考え、1970年に赤軍派と名乗る9人の犯人グループが羽田空港から福岡空港へ向かうよど号をハイジャック。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に亡命するために同行に向かう命令をすると韓国の金浦空港への着陸をへて北朝鮮の美林飛行場に到着しました。

さらに、大阪や東京などで武装蜂起を起こそうとしたものの、失敗してしまった国内の赤軍派は武装訓練を大菩薩峠付近で開始。

これが警察に筒抜けになったことが原因で1969年に53人のメンバーが逮捕。

主力メンバーもこの時逮捕され、赤軍派は壊滅に追い込まれてしまいました。

京浜安保共闘と赤軍派の合併〜連合赤軍の誕生〜

大菩薩峠事件とよど号ハイジャック事件によって主力メンバーを失ってしまった赤軍派。

しかし、この頃になると他の過激派組織と手を組んで新しい組織を作ろうという動きが出てきます。その一つが日本共産党革命左派神奈川県委員会(通称京浜安保共闘)との合併でした。

この京浜安保共闘は真岡銃砲店の襲撃事件を起こし、沢山の武器を強奪しており、赤軍派は大菩薩峠で壊滅的状態になったものの、銀行に対する連続強盗事件を起こしており、ある程度の資金力がありました。

両組織とも警察から追われている組織であり、この二つの特徴を持った組織は警察の目をかいくぐって合併。群馬県の山岳に山岳ベースを構えて連合赤軍がついに旗揚げされることになりました。

連合赤軍が起こした二つの事件

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こうして京浜安保共闘と赤軍派が合併して成立した連合赤軍でしたが、この連合赤軍は森恒夫をトップとして最高幹部に坂口弘と永田洋子を据えていましたが、共産主義にもいろいろありましてこの京浜安保共闘と赤軍派は徐々に亀裂が生じていくようになります。

酷い総括の末に

1971年の連合赤軍結成以降両組織は合同軍事訓練を行うようになり、協力関係が芽生えていくようになるのですが、元々この二つの組織はバラバラで警察から追われているからタッグを組んでいるわけであってそもそも仲はあまりよくはありませんでした。そのため徐々に仲違いをするようになるのですが、そんなある日京浜安保共闘のメンバーであった永田洋子が水筒を持ってこなかったとして紛争が起こるようになります。

この水筒問題は永田洋子の自己批判によってなんとかことは収まるのですが、ここから総括という行いを連合赤軍のメンバーに課していくようになりました。

総括というのは簡単に言えばこれまでの行い反省してこれからどうすればいいのか考えることなんですが、この連合赤軍の総括は徐々にエスカレート。連合赤軍に見切りをつけて脱出したメンバーを捉えて殺し、印旛沼に埋める印旛沼事件を皮切りに連合赤軍内での総括が横行。些細なことでメンバーを暴行してさらにはアイスピッケルで殺すなど言葉が出ないほどの酷いやり方でメンバーを殺していきます。

トップである森恒夫はこのことを「総括できなかった敗北死」と称しましたが、この一連の総括によって12人が殺害。山岳ベース事件はこのようにして起こってしまったのです。

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