教養歴史

戦国武将驚きの戦術!~戦いは力ばかりではない?~

応仁の乱~豊臣秀吉による天下統一に至るまでの約100年間、日本の歴史上でも類を見ないほど大小の戦いが行われてきました。確認されているだけでも数千回はあろうかというくらい戦国武将は戦い続けたのです。これほど短期間のうちにこれだけの戦いがあったのは世界でも例がなく、来る日も来る日も戦いに明け暮れた時代だったのでした。しかし、華々しい合戦の舞台裏では様々な駆け引きが行われ、戦いに至るまでにあらゆる戦略を使って、いかに自軍にとって有利になるか?いかに劣勢を覆すことができるか?まさに知恵比べの様相を呈していたのですね。さあ、武将たちはいかにして知略、謀略、調略を使ったのか?いかにして生き残りを図ろうとしたのか?実際の合戦と絡めながら解き明かしていきましょう。

小よく大を制した氏康の策謀~河越夜戦~

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戦国時代の幕開けと共に、表舞台に駆け上がってきた小田原北条氏。元は足利幕府の奉公衆だった伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国で身を起こし、相模国(今の神奈川県)を奪って戦国大名として名を挙げますが、関東を実質支配していた関東管領上杉家(山内、扇谷)が黙って見過ごすはずもなく、抗争に突入していました。

大軍に囲まれる河越城

小田原北条氏と敵対していた上杉氏とは、関東公方(関東の武士を束ねる将軍のような存在。足利一門が担っていた)を補佐する執政職でしたが、いつしか関東公方よりも力を持ち、当時は山内上杉家扇谷上杉家が併立しながらも反目し合う間柄でした。ほぼこの二家で関東支配を牛耳っていたのです。

しかし小田原北条氏が力をつけ、相模国どころか武蔵国(現在の東京都、埼玉県)にまで手を伸ばすと、いよいよ両者はぶつかり合うことに。当然、共通の敵として北条氏を認識した両上杉氏は連合し、その大軍をもって反撃に出ました。その鉾先となったのが河越城(現在の埼玉県川越市)だったのです。

当時の北条氏は二代目の氏綱が亡くなったばかりで、跡を継いだのが若年の北条氏康。1546年、この機を逃さじと上杉連合軍はなんと8万もの大軍で河越城を囲んだのでした。城に籠城するのは城将北条綱成ら3千ばかり。肝心の当主氏康は対今川戦の真っ最中で簡単には援軍に駆けつけられません。

氏康が仕掛けた謀略戦術

ところが北条氏にとって幸いなことに、食糧の備蓄は十分で、兵士たちの戦意も高く、容易に河越城は落ちません。そうして半年ほど時を稼ぐことができたのです。その間に氏康は今川と和睦交渉を結び、関東へ取って返すことに成功。さっそく両上杉と対陣することになったのでした。

とはいえ氏康の手元にはわずか8千程度の軍勢しかなく、まともに戦っても勝ち目があるわけもなし。そこで氏康は大軍を切り崩すための謀略を仕掛けました。それは「偽りの降伏」を申し出ること。もちろん、今まで北条にさんざん煮え湯を飲まされ続けてきた両上杉が簡単に降伏を許すはずもありません。

しかし、それは氏康にとってすべて計算ずくのこと。こちらが弱みを見せれば必ず侮ってかかるはずだと、上杉という名門の家にありがちな心の隙を狙った策略だったのです。また、念には念を入れて扇谷上杉氏の重臣太田資時をも調略によって寝返らせることに成功したのでした。

電光石火の奇襲攻撃

その間にも上杉方は攻撃を仕掛けてきますが、小競り合いに終始するのみで氏康はのらりくらりと鉾先をかわして戦おうとはしません。「北条の者共のやる気のなさよ。これで上杉の勝利は確実なもの」と高をくくった上杉軍の陣内には楽勝ムードが漂います。しかし、この状況を看破した氏康はチャンスを逃しませんでした。自陣の兵士の鎧兜をすべて脱がせて身軽にさせ、音が鳴らないようにし、完全に油断して警戒すら怠っていた上杉軍に対し、夜陰に紛れて一斉に襲い掛からせたのでした。これが世にいう三大奇襲戦のひとつ、河越夜戦でした。

子の刻といいますから深夜の0時~2時の間。襲われたほうはたまったものではありません。縦横無尽に斬り崩してくる北条軍に対し、有効な反撃すらできず上杉陣内は大混乱!有力な武将が次々と討ち死にしていきます。ついに蜘蛛の子を散らすように退却していきますが、なんと扇谷上杉家の当主(上杉朝定)までもが討ち死に。この時の上杉軍の死者は1万5千とも言われていますね。

この戦いを契機に、関東でのパワーバランスは一気に北条氏へと傾きました。このわずか6年後、関東を牛耳っていた関東管領上杉氏はついに関東を追い出され、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びる羽目になるのです。

鮮やかすぎる毛利元就の謀略術~厳島の合戦~

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安芸国(現在の広島県)の地方領主から出発した毛利元就。彼はまさに大器晩成型の人物で、老齢になってから中国地方を治める大大名となりますが、そこに至るまでの道筋は平坦なものではありませんでした。その最も強大なライバルというのが主家の大内氏を下克上で倒し、その実権を握る陶晴賢。彼を倒さねば毛利家の道は開けない。しかし圧倒的な軍事力の差があります。さて、元就に打開策はあるのでしょうか。

まずは敵の力を削ぐこと

陶晴賢の動員できる兵力は約2万5千。かたや毛利氏の動員力はどんなに多くても約4千。普通に戦ってはまず勝ち目がありません。そこで元就はまず、陶方の力を削ぐことを考え付くことに。

陶軍に江良房栄という武将がおり、勇将として近隣に名を轟かせていました。敵なら厄介だが味方となれば、これほど心強いことはありません。元就はダメ元で房栄を調略しようとしますが、なんと房栄はあっさりと内応。しかし元来強欲な人物だったのか、更なる加増を求めてきたのです。

そこで元就は一計を案じ、内応の交渉すべてを陶方にばらします。疑心暗鬼にかられた陶晴賢は結局、房栄を暗殺してしまい、元就は手を汚すことなく敵の力を削ぐことに成功したのでした。

謀略で敵を厳島に誘い込む

次に、大軍を相手にした決戦場をどこにするか?広い平野で戦っても勝ち目はありません。そこで元就は噂を流します。「厳島(宮島)に城を築いたのはいいが、狭いし城も小さい。だけどここを取られると毛利は喉元に刃を突き付けられたのも同じことだ」と。当時の安芸には敵方のスパイがたくさんいたたため、すぐに晴賢の耳に入ることに。まんまと彼は厳島の宮尾城攻めの準備に取り掛かったのでした。

更には毛利家臣に桂元澄という者がおり、父親がかつて元就に討たれた経緯から「陶方に内通したい」という偽文書を何度も晴賢に送りつけました。当初は信用していなかった晴賢も、次第にその気になったのでしょう。「桂も味方に参ずれば勝ったも同然」と大軍を率いて厳島へ向かうことになったのでした。

こればかりではありません。厳島から陶軍が動けないよう海上封鎖のために村上水軍までも味方につけていたのです。戦いが始まる前から完全なる布石を打っておく。これが元就流の知謀だったのですね。

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明石則実