- 1. メディアでも大人気の「大奥」ってどんなところ?
- 1-1.大奥のはじまり
- 1-2. 大奥を作ったのは春日局
- 1-3.大奥の権力を絶大にした春日局
- 1-4.堕落する大奥
- 1-5.賄賂も横行していた大奥
- 1-6.大奥の崩壊
- 2. 百花繚乱!大奥で起こった事件10選
- その1. 大奥最大のスキャンダル!絵島生島事件
- 江島生島事件とは?
- 天英院と月光院の対立も関係していた
- その2.天璋院篤姫と皇女和宮の軋轢
- その3.度重なる御年寄瀧山の受難!実成院VS瀧山
- その4.こんな事件起きていいの?将軍綱吉「刺殺」事件
- その5.大奥きっての悪女!お美代が起こした智泉院事件
- その6.まだあったお美代の方の職権乱用!感応寺事件
- その7 側室お美代の陰謀!でっち上げのお墨付き事件
- その8.江戸時代最大のスキャンダルはこっち?延命院事件
- その9.網代駕籠から見つかった死体の謎?!
- その10.16歳の少女が命を落とした女中
- 華やかだけど寂しい世界?大奥女中の事件はちょっぴり心が痛い
この記事の目次
1. メディアでも大人気の「大奥」ってどんなところ?
「大奥」が将軍以外の男子禁制の場だったことは、ご存知でしょう。ハーレム的なイメージが強いでしょうが、実は重要な役割を持っており、将軍の跡継ぎを生んで育てるための場だったのです。事件をご紹介する前に、「大奥」の歴史を簡単にご説明します。
1-1.大奥のはじまり
私たちが認識している「大奥」ができたのは、三代目将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の時代です。もともとは、豊臣秀吉から関東を治めるよう命じられた徳川家康が、居城にした「江戸城」に作られました。当時はとっても小さなお城でしたが、家康が征夷大将軍になると、江戸城を中心に城下町を形成し大改修を行っています。
その中に家康の家族が住む場所があり、家族の世話をする女中たちも暮らしていました。ここが後に、「大奥」になったといわれています。もちろん、家康の時代は男子禁制ではありませんでした。
大奥という場所ができたのは、二代将軍秀忠とお江与の方との間に竹千代(家光)が誕生した翌年のこと。慶長10(1605)年に、家康から将軍職を譲られ江戸城の主となった秀忠は、西ノ丸からでき立ての本丸に移りました。その時に、大奥も造られたようです。
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1-2. 大奥を作ったのは春日局
当初大奥で支配権を持っていたのは、お江与の方といわれています。因みに二代将軍秀忠の正室で、織田信長の妹お市の忘れ形見「浅井三姉妹の三女」です。三男五女とたくさんの子供を生んでいます。大奥の制度を確立したのは竹千代の乳母お福(後の春日局)です。ですので、大奥を作ったのは春日局といわれています。
有名な三代相続問題が勃発し、お福が駿府で隠居をしていた家康に「兄の竹千代君を後継ぎに」と直訴し解決へ導いたことで、家督争いを避けられたと一目を置かれ大奥の実権を握ったのです。元和4(1618)年に秀忠により「大奥法度」が定められ、この時初めて男子禁制となります。
大奥の役割は、将軍の世継ぎを産み育てるところです。それ以外に、江戸屋敷に住む諸大名の妻たちの社交場にも使われたとか。お福は、大名家の正室に将軍の姫を嫁がせるなど、大名家の縁組にも尽力したようです。
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ちょっと雑学
春日局という名は、天皇から賜った名前です。幕府の決定が朝廷の勅許より優先することを示した、朝廷と幕府との対立事件「紫衣事件」が起こります。後水尾天皇が攘夷の意向を示した際、お福は京へ上洛しました。
そうして、朝廷と幕府との連絡係「武家伝奏の三条西実条」の妹分として、参内するのです。その時、天皇より天盃を賜り、「春日局」という称号もいただきました。でも、幕府に仕える侍女を参内させたことに、公家たちは激怒。日記に批判の言葉を残したようです。
1-3.大奥の権力を絶大にした春日局
三代将軍になった家光(竹千代)は、春日局を母としてだけでなく、政治の面でも頼りにしていたことはご承知でしょう。それは、言葉が上手く出ずに母のお江与の方から疎まれた、竹千代を不憫に思い懸命に育てたのが春日局だからです。
更に、父秀忠と母お江与が利発な弟の国松を溺愛し将軍に推すも、先ほども触れた通り、家康への直訴により兄竹千代の立場を守り世継ぎと認めさせた強さもあり、将軍になっても絶大な信頼を置いていました。
寛永3(1626)年にお江与の方が身罷ると、お福は「大奥総取締」に就任します。老中たちでさえ春日局には逆らえず、大奥からにらみをきかせ大きな存在感を示し、表舞台にも影響力を持ちました。大奥誕生に立ち合い、大奥に大きな権力を持たせた人は、実は春日局だったんです。
ちょっと雑学
大奥の名前の由来は、かつての大名たちの言葉で、公的空間を「表」、私的空間を「奥」と呼んでいました。将軍の私的空間である女の花園は、家光のころから「大奥」と呼ばれるようになったのです。大奥の体制が整ったのは、四代将軍家綱のころといわれています。
1-4.堕落する大奥
五代将軍綱吉の時代になると、華やかな大奥の風紀が乱れます。側用人らとの癒着により、表舞台にも悪影響を及ぼすようになっていたのです。綱吉は利発で美しいお伝の方を得に寵愛しており、お目見えのさいの寝所でおねだりするお伝の方の言いなりになり一族を取り立てたとか。
更に、寵愛を受けた染子を、側用人の柳沢吉保の側室に与えました。吉保は悪いやつで、染子に将軍との閨で、息子吉里のお墨付きをもらうようおねだりさせたとか。この吉里君は、将軍の子か吉保の子かはっきり分かっておらず、吉保が自分の血を将軍家にとの目論見があったとの説も残っています。この策略は失敗に終わりましたが、この事件から寝所での監視制度ができたようです。
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1-5.賄賂も横行していた大奥
八代将軍吉宗は、大奥の乱れを正します。大奥が政治に口をだし、賄賂が横行していました。後でご紹介する、2年前に起っていた絵島生島事件に強い危機感を覚えており、乱れに乱れた大奥矯正策のひとつとして人員整理を実施しました。これが、吉宗の大岡裁きともいわれる、美人50人のリストラです。美人は良縁に恵まれるだろうから暇をだし、そうでないものを奥に残すというもの。大奥の経費削減も理由のひとつだったともいわれています。
でも、大奥を味方に付けるため、当時実権を握っていた、六代将軍家宣の御台所だった天英院と七代将軍家継の生母月光院には手厚い手当を与え特別待遇としていたようです。吉宗は、「大奥法度」を定め、大奥の規律を正し政治が大奥の影響を受けないよう管理する体制を築いています。この「大奥法度」は、幕末に大奥が崩壊するまで使われたようです。
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