2.徳川家康の天下取りを支えた徳川四天王
徳川家康が天下を取るまでには長い道のりがありましたが、それをずっと支え続けたのが、酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)の徳川四天王です。まさに家康の糟糠の家臣ともいえる彼らはどんな武将だったのか、それぞれご説明していきましょう。
2-1.古参中の古参・酒井忠次
家康の父の代から仕えた酒井忠次は、古参中の古参の家臣です。家康の今川人質時代も共に過ごし、三河一向一揆(みかわいっこういっき)では一族の多くが一揆側となる中、家康に従い戦いました。家康の主な合戦にはほとんど参加し、長篠(ながしの)の戦いでは武田軍を背後から急襲して功績を挙げ、織田信長からも称賛されました。
他の四天王よりも年長だったために隠居も早かったのですが、榊原康政と井伊直政の仲を取り持ち、2人が親友となるなど、年長者らしい役割も担ったようです。
2-2.戦国最強の誉れ高き本多忠勝
本多忠勝は、戦国最強とも呼ばれる武将でもあり、生涯57度の戦でかすり傷ひとつ負わなかったという逸話も持つ勇将です。長さ6mもある蜻蛉切(とんぼきり)という槍を手に戦場を疾駆し、倒した敵を弔うために、肩から大きな数珠を下げていました。
幼いころから家康に仕えた忠勝は、常に家康のために奮闘する人生を送ります。家康のピンチに、1万もの軍勢に単騎駆けを敢行したり、16万もの豊臣軍に対して500の兵で立ちはだかり、悠然と川に入って馬の口を洗わせたりするなど、そのすごさを伝えるエピソードには事欠きません。
豊臣秀吉からも「天下無双」と称賛された忠勝は、家康から絶大な信頼を寄せられた重臣でした。
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2-3.文武両道の忠臣・榊原康政
幼いころから家康に仕え、本多忠勝とは親友だった榊原康政は、三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数多くの戦に参加し、そのすべてで功績を挙げました。指揮官としての能力は忠勝にも勝ったとか。
その一方で教養もあり、上にも恐れず物申すことができる人物でもありました。家康の息子・信康にも度々小言を言いましたが、逆上した信康に射殺されそうになっても平然としており、信康もさすがに言うことを聞いたと伝わります。また、関ヶ原の戦いで遅刻した家康の息子・秀忠は家康の怒りを買ってしまいますが、康政の取りなしによって対面を果たし、何とか許されたのです。
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2-4.赤備えの猛将・井伊直政
井伊直政は、他の徳川四天王よりもだいぶ年下です。幼いころには父や一族が殺されるなど苦労しましたが、鷹狩りから帰る途中の家康に見出され、小姓になったと伝わります。家康の寵愛を一身に受けた、大変な美少年でした。
直政は若いころから活躍し、旧武田の軍勢を引き継ぎ、赤一色で統一された軍装の「赤備え(あかぞなえ)」を率いて常に戦場ではすさまじい戦いぶりを見せ、「井伊の赤鬼」として恐れられました。また、戦だけではなく交渉事にも非常に長けており、関ヶ原の戦いの際には多くの武将を東軍につけることに成功し、戦後は敗れた武将たちの処遇にも奔走しています。
戦場では常に傷だらけとなって戦った直政は、自分にも家臣にも厳しい男でしたが、それは家康への揺るぎない忠誠を全うするためだったのです。
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3.秀吉の出世を後押しした羽柴四天王
豊臣秀吉は天下統一を果たす前、木下姓や羽柴姓を名乗りました。そのころに仕え、秀吉の出世をサポートしたのが、羽柴四天王である神子田正治(みこだまさはる)・尾藤知宣(びとうとものぶ)・戸田勝隆(とだかつたか)・宮田光次(みやたみつつぐ)です。四天王としては残念な最期を迎えた者もいますが、いったいどんな武将たちだったのか、ご紹介しましょう。
3-1.秀吉と口論の末に追放された神子田正治
神子田正治は羽柴四天王第一の男とされ、その武勇から秀吉に頼み込まれ、信長のもとから移った武将です。三木合戦や山崎の戦い、賤ケ岳の戦いなど、秀吉がステップアップする戦いにはいつも参加していました。
しかし、小牧・長久手の戦いにおいて無断で離脱し、ひとりで敵の首を携えて戻ってきます。「さすが神子田」と秀吉は感心しましたが、正治は「こんなことで感心しているようでは、みんなが自分の手柄ばかりを気にして、大きな利益など得られませんぞ」と答え、秀吉と口論になってしまいました。それはエスカレートし、ついには秀吉に「一緒に戦う価値もない」と言い放ち、高野山へと追放されてしまうのです。
その後、正治は放浪の末に秀吉のもとに戻り、帰参させてほしいと泣きつきましたが、秀吉に拒否され、反対に死を申し付けられました。
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