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「大阪夏の陣」とは?難攻不落・大坂城はなぜ落城したのかわかりやすく解説

「大阪夏の陣と冬の陣、どっちが先だったっけ?」日本の歴史に詳しいつもりでも、お恥ずかしながら時々ふと、そんな疑問が頭に浮かんで焦ってしまうことがあります。正解は冬の陣→夏の陣。大阪夏の陣は、戦国時代に終わりをつげる歴史のターニングポイントとなった戦です。忘れてはいけない冬→夏の順番。今回は戦国最期の戦いが起きるまでの流れとともに、大阪夏の陣にスポットを当ててまいります。

戦国時代最後の大戦「大坂の陣」が起きるまで

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戦国時代の終盤、豊臣の世が終わり、徳川の時代を告げる重要な戦となった「大阪の陣」。栄華を誇っていたはずの豊臣家はなぜ徳川軍に敗北してしまったのでしょうか。戦国末期に何が起きたのか、「大阪の陣」が起きる前の流れを追いかけてみましょう。

天下分け目の大戦(おおいくさ)「関ヶ原の戦い」

1500年代末期、室町幕府が腰砕けになったことから地方の守護大名や名もなき御家人たちが立ち上がり、知力と武力がぶつかり合う戦国時代が始まりました。戦国武将同士の争い・せめぎ合いは、織田信長、そして信長の後を継いで天下統一に乗り出した豊臣秀吉という二人の武将の存在によって終焉を迎えようとしていました。

しかし天下統一を成し遂げたばかりの豊臣秀吉は1598年に死亡。秀吉が後継者として気にかけていた息子の秀頼はこのときまだ5歳という幼さでした。

秀吉の死は、秀吉のもとでひとつにまとまるかと思われていた各地域の武将たちにも少なからず変化をもたらします。そしてとうとう、武将たちは真っ二つに。石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍に分かれ、天下分け目の決戦の時を迎えることとなったのです。

慶長5年(1600年)9月15日早朝、場所は関ケ原(せきがはら・現在の岐阜県不破郡)。東西両軍とも大軍で、文字通り日本中の武将が結集した形となりました。戦いは長期戦になると思われましたが、結果的には1日もたたないうちに集結。西軍優勢かと誰もが予測していた中、関ケ原の合戦は東軍勝利で幕を下ろします。

幼き後継者・豊臣秀頼か?実質的なトップ・徳川家康か?

関ヶ原の戦いで東軍が勝利をおさめたことで「これで徳川幕府の始まりか?」と思ってしまいがちですが、そう簡単にはいきません。関ケ原の戦いはあくまでも「意見が異なる豊臣家の家臣同士の戦い」であり、徳川家康はその戦いに勝利したにすぎません。

つまり、形としては、徳川家康が豊臣家の家臣のトップに立った、ということになります。

しかし豊臣家のトップである秀頼はこのときまだ7歳。誰が見ても徳川家康の天下です。調子に乗って大阪城を乗っ取って天下人を気取ることもできたはず。ただ、ここでグイグイ強引に行かないのが家康らしいといえばらしい。あくまでも豊臣家の家臣の一人として、江戸を拠点に活動。江戸幕府を開き、静かに事を進めます。

豊臣側の様子はというと、頼りにしていた石田三成が敗北し、重臣たちも何となく徳川家康になびき始めていました。豊臣秀吉と強いきずなで結ばれていた前田利家などの武将たちも高齢となり、大阪城の守りにつくことはできません。大阪城は実質、秀頼の母・淀が取り仕切ることとなります。

淀がどこまでで戦国の世を見渡せていたか定かではありませんが、難攻不落とうたわれた巨大城郭・大阪城の中にいれば安全、天下人は豊臣秀頼、家康なんて目じゃないわ……。それ以上のことは考えていなかったのかもしれません。

大阪城の守りを任せられる武将がいれば状況は変わっていたかもしれませんが、結果的に、淀に権力が集中する形となってしまいます。このことが豊臣の世を終わらせる原因になったと見る人も少なくないようです。

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