室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる朝倉義景の生涯!なぜ滅んだ?一乗谷文化とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

福井県福井市から足羽川沿いに西へ向かい、途中から分け入った谷筋に、一乗谷朝倉氏遺跡という史跡があります。ここにはかつて戦国時代に栄華を誇った戦国大名朝倉氏の城館跡があるのです。当時の城下町の町並みも一部復元されていますね。少し前のテレビCMで、某携帯キャリア会社の白いお父さん犬が復元町並みをバックに出演していましたっけ。ちなみにとっくの昔に滅んでしまった城下町ですが、近年この史跡が非常に注目されています。なぜなら京都にも引けを取らない一乗谷文化という華麗な文化を根付かせたこと、そして一乗谷こそが北陸地方の一大経済拠点だったことなどが挙げられるでしょう。今回は一乗谷に焦点を絞って、なぜ華麗な文化を築き上げた朝倉氏が滅んだのか?謎を解き明かしていきましょう。

1.越前朝倉氏の歴史~勃興から信長との対立まで~

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「中世の小京都」と呼ばれた一乗谷の歴史は、常に越前の戦国大名朝倉氏と共にありました。朝倉義景の代に滅亡に至るまで、その興亡の歴史を振り返ってみましょう。

1-1.朝倉氏のおこり

戦国の世は、たいていどこの武家も「自分は〇〇天皇の子孫だ!」だの、「俺の家は八幡太郎義家の後裔だ!」などと、いわば言ったもん勝ちがまかり通っていた時代でした。

何とか自分の家を立派に見せたい!その一心で「名家を自称」することが流行っていたわけですね。

朝倉氏も例にもれず、「うちの家は孝徳天皇の子孫なのだ!」と恥も外聞もなく主張していますね。とはいえ平安時代末期には但馬国(現在の兵庫県北部)の朝倉に居住して朝倉姓を名乗るようになりました。

1-2.源頼朝に救われた朝倉高清

源平合戦の時に平家方に味方してしまい、壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあとは山奥に隠れ住むようになりました。ところが偶然が朝倉氏を救うことになったのです。

平家の残党狩りに遭ってあえなく捕縛されてしまった当主の朝倉高清は、そのまま鎌倉送りにされて明日をも知れない命に。ところがこの時期に関東に白いイノシシが現れ、各地に大きな被害をもたらしました。しかし関東の武士たちは誰も恐れて討伐に向かおうとはしません。

そこで源頼朝が神に占ったところ、「但馬に豪勇の武士がいるので、召し出して退治させるが良い」という神託を得ました。「まさか朝倉高清のことでは?」と考えた頼朝は、さっそく高清を退治に向かわせました。

8人がかりでやっと引けるという弓を軽々と操り、神から与えられたという鏑矢を用いて、見事イノシシを退治した高清。罪を赦免されて悠々と但馬へ凱旋したそうです。

そういった経緯から、朝倉氏は元から越前国(今の福井県)に居住していたわけでなく、但馬国の出自だったことがわかりますね。

1-3.朝倉敏景の登場

南北朝時代に入ると朝倉氏は二つに分かれることになりました。但馬出身の朝倉広景は単独で足利尊氏に付き従い、斯波高経の配下に入ることに。

彼は南朝方の新田義貞を討つなどの戦功を挙げ、以後は斯波氏の重臣として越前に居を構えることになったのです。

やがて朝倉敏景が家督を継ぐと、越前における実権は着実に朝倉氏のものとなっていきました。この時期、守護の斯波氏と守護代の甲斐氏との間で不毛な争いが繰り返され、その隙を突いて敏景の勢力がのし上がってきたといえるでしょう。

1-4.応仁の乱で敵から恐れられた敏景

やがて京都で応仁の乱が勃発し、西軍についた斯波氏の麾下として敏景も出陣しました。このバカバカしい大乱の最中、最もマジメに戦っていたのが敏景で、自ら槍をふるって敵を倒すなど獅子奮迅の活躍をしたそうです。

あまりの敏景の活躍に恐れをなした東軍側は、しきりに味方になるよう敏景を説得します。何度も誘ってくるのでしつこく感じたのか、敏景は無理難題の条件を提示したのでした。

「東軍へ付く代わりに、越前守護職並みの権限を自分に与えるように」

普通なら重臣クラスの武将にこんな権限が与えられるはずがありません。ところが東軍はよほど切羽詰まっていたのか、その条件を快諾。しかも幕府のお墨付きというオマケつきだったのです。

1-5.越前を制した朝倉氏

晴れて東軍へ寝返った敏景は、さっそく越前へ戻って平定戦を繰り広げます。

敵対勢力を悉く平らげ、皇室領や寺社領などところ構わず押領。さらにはライバル視されていた甲斐氏すら国外へ追放し、ついに越前における覇権を確立したのでした。戦国大名としての朝倉氏の誕生です。

晩年、敏景は「朝倉敏景十七ヶ条」を制定しており、これが戦国時代における分国法の始まりだとされていますね。

1-6.全盛期を迎えた一乗谷

こうして朝倉氏は戦国大名としての第一歩を踏み出し、以後の当主たちも堅実な領国経営を続けていたようです。室町幕府の御供衆や相伴衆などにも加えられ、幕府をバックにした権威付けにも成功していました。

越前を取り巻く状況は目まぐるしいものがありましたが、隣国の美濃から内紛で逃げてきた土岐政頼を保護したり、北近江の浅井亮政をかくまったりするなど、かなり余裕のあるところを見せつけていますね。

また本拠地の一乗谷には京都から著名人などが多く訪れ、文化創造の一役を担っていたといいます。公家の飛鳥井雅綱や一条房冬、連歌師の宗長などが下向し、一乗谷はあたかも小京都のようであったと伝わっていますね。

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