室町時代戦国時代日本の歴史

朝倉義景はなぜ滅んだのか?~華麗な一乗谷文化と朝倉氏~歴史系ライターが解説

福井県福井市から足羽川沿いに西へ向かい、途中から分け入った谷筋に、一乗谷朝倉氏遺跡という史跡があります。ここにはかつて戦国時代に栄華を誇った戦国大名朝倉氏の城館跡があるのです。当時の城下町の町並みも一部復元されていますね。少し前のテレビCMで、某携帯キャリア会社の白いお父さん犬が復元町並みをバックに出演していましたっけ。ちなみにとっくの昔に滅んでしまった城下町ですが、近年この史跡が非常に注目されています。なぜなら京都にも引けを取らない一乗谷文化という華麗な文化を根付かせたこと、そして一乗谷こそが北陸地方の一大経済拠点だったことなどが挙げられるでしょう。今回は一乗谷に焦点を絞って、なぜ華麗な文化を築き上げた朝倉氏が滅んだのか?謎を解き明かしていきましょう。

越前朝倉氏の歴史~勃興から滅亡まで~

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一乗谷の歴史は常に越前の戦国大名朝倉氏と共にありました。朝倉義景の代に滅亡に至るまで、その興亡の歴史を振り返ってみましょう。

朝倉氏はいったいどこからやって来た?

戦国の世は、たいていどこの武家も「自分は〇〇天皇の子孫だ!」だの、「俺の家は八幡太郎義家の後裔だ!」などと、いわば言ったもん勝ちがまかり通っていた時代でした。何とか自分の家を立派に見せたい!その一心で【貴種を自称】することが流行っていたわけですね。

朝倉氏も例にもれず、「うちの家は孝徳天皇の子孫なのだ!」と恥も外聞もなく主張していますね。とはいえ平安時代末期には但馬国(現在の兵庫県北部)の朝倉に居住して朝倉姓を名乗るようになりました。

源平合戦の時には平家方に味方してしまい、壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあとは山奥に隠れ住むようになりました。ところがたまたまの偶然が朝倉氏を救うことになったのです。

あえなく平家の残党狩りに遭って捕縛されてしまった当主の朝倉高清は、そのまま鎌倉送りにされて明日をも知れない命に。ところがこの時期に関東に白いイノシシが現れ、各地に大きな被害をもたらしました。しかし関東の武士たちは誰も恐れて討伐に向かおうとはしません。

そこで源頼朝が神に占ったところ、「但馬に豪勇の武士がいるので、召し出して退治させるが良い」という神託を得ました。「まさか朝倉高清のことでは?」と考えた頼朝は、さっそく高清を退治に向かわせました。

8人がかりでやっと引けるという弓を軽々と操り、神から与えられたという鏑矢を用いて、見事イノシシを退治した高清。罪を赦免されて悠々と但馬へ凱旋したそうです。

そういった経緯から、朝倉氏は元から越前国(今の福井県)に居住していたわけでなく、但馬国の出自だったことがわかりますね。

朝倉氏、越前を支配する

南北朝時代に入ると朝倉氏は二つに分かれることになりました。但馬出身の朝倉広景は単独で足利尊氏に付き従い、斯波高経の配下に入ることに。彼は南朝方の新田義貞を討つなどの戦功を挙げ、以後は斯波氏の重臣として越前に居を構えることになったのです。

やがて朝倉敏景が家督を継ぐと、越前における覇権は着実に朝倉氏のものとなっていきました。この時期、守護の斯波氏と守護代の甲斐氏との間で不毛な争いが繰り返され、その隙を突いて敏景の勢力がのし上がってきたといえるでしょう。

やがて京都で応仁の乱が勃発し、敏景も西軍についた斯波氏の麾下として出陣しました。このバカバカしい大乱の最中、最もマジメに戦っていたのが敏景で、自ら槍をふるって敵を倒すなど獅子奮迅の活躍をしたそうです。

あまりの敏景の活躍に恐れをなした東軍側は、しきりに味方になるよう敏景を説得します。何度も誘ってくるのでしつこく感じたのか、敏景は無理難題の条件を提示したのでした。

「東軍へ付く代わりに、越前守護職並みの権限を自分に与えるように」

普通なら重臣クラスの武将にこんな権限が与えられるはずがありません。ところが東軍はよほど切羽詰まっていたのか、その条件を快諾。しかも幕府のお墨付きというオマケつきだったのです。

晴れて東軍へ寝返った敏景は、さっそく越前へ戻って平定戦を繰り広げます。敵対勢力を悉く平らげ、皇室領や寺社領などもところ構わず押領。さらにはライバル視されていた甲斐氏すら国外へ追放し、ついに越前における覇権を確立したのでした。戦国大名としての朝倉氏の誕生です。

晩年、敏景は「朝倉敏景十七ヶ条」を制定しており、これが戦国時代における分国法の始まりだとされていますね。

朝倉氏の全盛期

こうして朝倉氏は戦国大名としての第一歩を踏み出し、それ以後の当主たちも堅実な領国経営を続けていたようです。室町幕府の御供衆相伴衆などにも加えられ、幕府をバックにした権威付けにも成功していました。

越前を取り巻く状況は目まぐるしいものがありましたが、隣国の美濃から内紛で逃げてきた土岐政頼を保護したり、北近江の浅井亮政をかくまったりするなど、かなり余裕のあるところを見せつけていますね。

また本拠地の一乗谷には京都から著名人などが多く訪れ、文化創造の一役を担っていたといいます。公家の飛鳥井雅綱一条房冬、連歌師の宗長などが下向し、一乗谷はあたかも小京都のようであったと伝わっていますね。

歴代当主の中でも朝倉孝景は文化の発展と保護に非常に熱心だったようです。臨済宗の僧侶月舟寿桂は、孝景のことをこう論じていますね。

 

「治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙である」

引用元 「幻雲文集」より

 

また京都五山の僧春沢永恩は孝景のことを「風流太守」と呼び、文化に理解がある良将ぶりを高く評価しました。いずれにせよ、この孝景の治世にあたる36年間が朝倉氏にとって黄金時代だったといえるでしょう。

織田信長との対立

1548年、黄金時代を築いた孝景が急死すると、跡を継いだのは嫡男の長夜叉丸でした。やがて長じて義景と名乗ります。そんな中、若き当主を支えたのが老齢の朝倉宗滴(教景)で、彼は東では一向一揆と戦い、西では北近江の浅井氏や、若狭の武田氏を支援するなど東奔西走して朝倉氏の武威を示し続けました。まさに朝倉氏の柱石ともいわれる存在で、1555年に宗滴が亡くなると、朝倉氏はまるで坂を転がり落ちるように滅亡への道を辿り始めるのです。

1566年、越前へ流浪してきた足利将軍の弟義昭を保護するものの、ついに上洛の軍を起こすことはありませんでした。背後には一向一揆勢がいて、それどころではなかったという言い訳もできますが、結果的に義昭は尾張の織田信長を頼り、ついに上洛を果たして一旦は室町幕府を再興させるのです。

上洛して京都を手中に収めた信長は、義昭の名のもとに再三義景に上洛を求めました。しかし一向に応じようとしない義景の態度に信長の不満と怒りは爆発。ついに越前討伐の軍を起こしたのでした。

越前の喉元まで侵攻を許した義景でしたが、ここで浅井長政が織田側を裏切って朝倉方に味方します。首尾よく挟み撃ちにしたはずが、織田軍の善戦もあり、まんまと信長を取り逃がしてしまう結果となったのは、やはり義景の優柔不断さが成せる業だったでしょうか。

続く姉川の合戦でも義景は自らが出陣しようともせず、一族の朝倉景健に軍を預けてしまうだけになりました。様々な理由はあるにせよ、大将がいなければ兵たちの士気が上がるはずがありません。この義景の消極ぶりに、あの名将武田信玄ですら歯噛みして悔しがったといいます。

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明石則実