安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

織田・徳川・豊臣など戦国大名を支えた四天王とは?各主君別に一挙紹介

5-2.政務全般を取り仕切った大黒柱・直江景綱

長尾為景(ながおためかげ)・晴景・景虎(上杉謙信)の3代に仕えた直江信綱は、謙信の家督相続の中心となり、その後は絶大な信頼を寄せられました。謙信が出奔騒動を起こし出奔した時には奉行として政務全般を任されています。彼が政務をこなしたからこそ、謙信は戦に集中できたとも言えますね。謙信が上洛する際の朝廷・幕府との交渉役も果たし、派手さはなくとも欠かせない存在でした。その一方で、川中島の戦いでは信玄の息子・武田義信(たけだよしのぶ)を敗走させるなど、武将としての能力もあるとこを見せつけています。

彼は娘に婿を迎え、直江信綱(なおえのぶつな)と名乗らせました。しかしその信綱が亡くなってしまい、未亡人となった景綱の娘は新たに婿を取ります。それが、戦国屈指の軍師として誉れ高い直江兼続(なおえかねつぐ)なんですよ。

5-3.謎多き上杉の軍師?宇佐美定満

宇佐美定満については謎が多く、謙信に仕え始めたのは50歳を過ぎてからだとも伝わっています。それ以外についてはほとんどが不明なのです。

彼が上杉四天王に数えられるようになったのは、実は、江戸時代の軍学者・宇佐美定祐(うさみさだすけ)による言い伝えだといわれています。定祐は自分の先祖に宇佐美定行(うさみさだゆき)という武将がおり、彼の経歴を定満に重ねたようなのです。

そのため、川中島の戦いで武田の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)の啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)を見破ったのが定行(定満)と伝えられました。また、謙信の義理の兄が謙信の家督相続に不満を持つと、定行(定満)は彼の暗殺を謀り、船遊びに誘って船底の栓を抜き、もろとも湖の底へ沈んだということです。

5-4.狩猟暮らしから上杉一の侍大将へ・甘粕景持

甘粕景持という武将の経歴は不明ですが、ユニークな説も伝わっています。なんでも、山の中で狩猟をして暮らしていたのですが、その腕を謙信に見込まれて家臣に加えられたというのです。

そんな出自ともいわれる景持ですが、「勇気と知謀を兼ね備えた侍大将」と称され、川中島の戦いでは上杉軍のしんがりとなり、武田の別動隊と死闘を演じました。その戦いぶりのすさまじさは、謙信自らがしんがりをつとめていると敵に思わせるほどだったそうです。

謙信の死後はその養子・上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕え、上杉氏を長年苦しめた家臣の反乱・新発田重家(しばたしげいえ)の乱で活躍し、敵将を多く討ち取りました。景勝が会津、米沢へと領地替えとなっても付き従い、米沢の地で亡くなりました。

6.「肥前の熊」龍造寺隆信を支えた龍造寺四天王

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戦国時代の九州、肥前で勢力を拡大し、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)にも、武勇に優れ、忠義心あつい龍造寺四天王という家臣たちがいました。その多くは主君と共に戦場に散ることとなります。その顔ぶれは、成松信勝(なりまつのぶかつ)・百武賢兼(ひゃくたけともかね)・木下昌直(きのしたまさなお)、そして江里口信常(えりぐちのぶつね)または円城寺信胤(えんじょうじのぶたね)です。江里口と円城寺についてはどちらかが選ばれることが多いようですね。では、少々マイナーではありますが、粒揃いの龍造寺四天王についてご紹介しましょう。

6-1.主君に命を捧げた成松信勝

成松信勝は、龍造寺四天王で最初に挙げられる武将です。隆信がまだ強大な力を持つ前のこと、当時九州で最大勢力を誇った大友軍に攻められた今山(いまやま)の戦いが起こりましたが、その時、信勝は奇襲の軍勢に加わり、敵将・大友親貞(おおともちかさだ)の首を挙げるという大きな功績を挙げました。この戦いによって、龍造寺氏は勢いづくこととなるのです。

しかし、強大となった隆信はやがて暴君化していきます。彼に反抗した勢力を叩くために臨んだ沖田畷(おきたなわて)の戦いで、信勝は主君・隆信と共に討死を遂げました。

 

6-2.主の滅亡を予感していた百武賢兼

百武賢兼は非常に有能で強い武将で、主君・龍造寺隆信から「100人並みの武勇を持つ」と称賛され、百武という名前を与えられました。もともとは戸田姓を名乗っていたそうです。

しかし、主君・隆信は冷酷で、恩を受けた相手でさえも容赦なく攻め滅ぼす人物でした。隆信が何度もかくまってもらったことのある蒲池(かまち)宇治を攻めるという際には、賢兼は涙を流し、妻に促されても出陣しようとはしなかったそうです。そして「このたびのことは、お家を滅ぼすことになるだろう」と言ったとか。

主君の滅亡を予感していたものの、家臣としての忠義を捨てることのなかった賢兼は、沖田畷の戦いに参加。島津・有馬連合軍の策略に壊滅状態となる中、最後まで隆信に従い、戦場に散ったのです。

6-3.唯一生き残った四天王・木下昌直

龍造寺隆信から、その右腕である鍋島直茂(なべしまなおしげ)の家臣となった木下昌直。沖田畷の戦いでは、他の四天王が軒並み討死を遂げる中、鍋島隊のしんがりとなり生還を果たしました。その後は鍋島家臣として文禄の役にも参戦しています。晩年は出家し、生涯を全うすることのできた唯一の龍造寺四天王となりました。

6-4.敵にも称賛された江里口信常

沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信が討死を遂げる中、江里口信常は自身を味方と偽り、有馬・島津連合軍の陣中に入り込みます。そして敵の大将のひとり・島津家久(しまづいえひさ)の首を狙いました。しかし果たせず、捕らえられてなぶり殺しにされてしまいます。

しかし、島津家久は彼を「無双の剛の者であることよ!」とほめたたえ、一族がいるならばぜひ召し抱えたいとまで言ったそうです。

6-5.主の身代わりとなった円城寺信胤

武勇に優れた武将だった円城寺信胤は、沖田畷の戦いで味方が大混乱に陥り潰走する状況下で、「我こそが龍造寺隆信なり!」と名乗りを上げ、敵中に斬り込んで壮絶な死を遂げました。主君の身代わりとなり、少しでも逃げる時間を稼ごうとしたのです。しかし信胤の思いもむなしく、主君・隆信もまた沖田畷の地で敵に討たれてしまうこととなります。

戦国大名を支える四天王の存在は見逃せない!

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戦国大名を支えた四天王たちの活躍は、どれもきらびやかなもの。非業の最期を遂げた者もいますが、多くは主のために尽くし、敗れれば戦場に散っていきました。滅びの美学とでもいうべき潔さが、彼らの最期には漂います。戦国時代を知る上では、彼らのような存在がいたことをぜひ念頭に置いていただければ、歴史がもっと楽しくなりますよ。

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