長篠の戦いの背景
長篠の戦いの2年前、徳川家康は上洛を目指す武田信玄の軍と三方ヶ原で激突し大敗を喫しました。あわや、徳川家も滅亡かと思われたその時、武田軍は東へと軍を返します。陣中で武田信玄が病没したからでした。跡を継いだ勝頼は求心力を維持するため、周辺諸国に対し兵を進めます。一方、織田・徳川も着々と反撃の準備を整えていました。
信玄が織田・徳川連合軍に圧勝した三方ヶ原の戦い
今川氏を滅ぼし、駿河を手に入れた武田信玄は虎視眈々と上洛の機会をうかがいました。1571年、北条氏康が死去し、子の氏政は武田信玄と和睦。武田氏と北条氏の同盟関係が復活しました。
1572年、後方の安全を確保した武田信玄は足利義昭の要請に応じて上洛の軍を発します。合計30,000余の大軍を率いた武田信玄は徳川領に侵攻。徳川家康の居城である浜松城へと迫りました。
しかし、武田軍は浜松城を包囲せず、素通りして三方ヶ原方面へと転進。このまま、武田軍を放置すれば家康の本国である三河も危機にさらされます。家康は織田信長の援軍と共に浜松城から出撃し武田軍を追いました。
武田軍と織田・徳川連合軍は三方ヶ原の台地で激突します。戦いの結果は武田軍の完勝。家康はほうほうの体で浜松城に逃げ込みました。
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信玄の死と勝頼の家督相続
1573年に入ると、武田軍の動きは何故か鈍化します。2月に三河野田城を陥落させたのを最後にほぼ動きが止まってしまいました。進撃停止の理由は信玄の病気が重くなったからです。4月、重臣たちは信玄の病状を心配し軍を東へと返しました。4月12日、信濃国駒場宿で信玄は病死します。
武田氏の戦略・戦術を記した『甲陽軍鑑』によれば、信玄は自らの死を3年隠すことや勝頼に勝頼の子の信勝が武田家当主となるまでの後見役となることを命じ、自分の死後は上杉謙信を頼るようにと遺言しました。信玄は側近の高坂昌信に「瀬田の橋に武田の旗を立てよ」と命じたともいいます。信玄の上洛への執念が伝わりますね。
勝頼は信玄の遺言に従い、信勝が成人するまでの陣代となります。勝頼が正式な後継者とされなかった理由は、勝頼が諏訪家に養子に出されていたからでした。
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織田・徳川の反撃と勝頼の対応
信玄の急死により、織田信長と徳川家康は窮地を脱することができました。東方の脅威が和らいだ信長は、足利義昭を京都から追放。さらに、浅井・朝倉両氏を滅ぼして勢力基盤を強固なものとします。
徳川家康は三河や遠江で所領の奪還をはかりました。長篠城を奪還し、奥三河に勢力を持っていた奥平氏を寝返らせたのもこの時です。
一方、勝頼は求心力維持のため領土拡大に動きました。1573年、勝頼は遠江東部にある高天神城を攻撃します。この城は、武田信玄が一度は攻略を目指したもののあきらめた城でした。勝頼は25,000の兵を出して高天神城を総攻撃。ついに、陥落させることに成功します。
この時、家康の兵力はわずかに10,000程度。野戦で勝てる見込みは少なく、織田の援軍もなかったことから高天神城を見捨てるしかありませんでした。信玄でさえ落とせなかった高天神城を落としたことで、勝頼の武名は上がります。
長篠の戦いの経緯
奥平貞昌の寝返りにより三河での勢力が大きく後退した勝頼は、長篠城奪還と武田の勢力拡大のため出陣します。対する織田・徳川連合軍は武田軍を大きく上回る兵力で武田軍を迎え撃ちました。精強を誇る武田軍に対し、織田・徳川連合軍は最新兵器の鉄砲を有効に活用した防御陣地で対抗します。長篠の戦いの経緯を詳しくみてみましょう。