室町時代戦国時代日本の歴史

信長と家康を苦しめた「一向一揆」とはどんな勢力?わかりやすく解説!

戦国時代大名が一番警戒していた敵は大名ではなく民衆による一揆でした。その中でも特に厄介であり、信長や家康を苦しめたのが今回解説していく一向一揆です。 果たしてこの一向一揆はどんな一揆だったのか?有名な一向一揆の例をあげながら解説していきたいと思います。

一向一揆とは何なのか?

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一向一揆とは浄土真宗の信者であった農民や武士たちが権力者に対して反乱を起こす一揆のことを総称した呼び方です。

浄土真宗というのは阿弥陀如来に対して信心を持てば誰でも救われるという民衆にとてもわかりやすい内容だったため戦国時代に爆発的に普及。一向一揆が起こる前から度々支配層に対して反乱を起こしていた農民と結びついて徐々に巨大化していきました。

一向一揆の強み

一向一揆には主に二つの強みがあったと考えられています。

まず一つ目が死を恐れないということ。どの時代の宗教も一緒なんですが、本当に信仰心を持っている人たちなら命なんて惜しくないという人はかなりいます。

特に浄土真宗の場合は阿弥陀如来を信仰さえすれば極楽浄土に行くことができるというものであったため余計に死を恐れない風潮が出来上がってしまったのかもしれません。

戦いをやればわかるかもしれませんが、戦争において死を恐れず突進してくる人ほど恐ろしいものはないんです。

もう一つは無限に兵力が増えていき、さらには戦っても利益がないということ。

一向一揆とは領地を治める大名の下に住んでいる農民たちが一斉に一揆を起こしていました。

そのためちょっと本気を出せば大名の兵力よりも動員できるのは当たり前九頭竜川の戦いでは30万人の一向一揆の軍勢が朝倉家に押し寄せたと書かれるなどその状況は恐ろしいものだったそうです。さらにその上で一向一揆を潰したとしても自国の領民であるため利益を得たどころか損をしているなどまさしく大名からしたら踏んだり蹴ったり。これが一向一揆がやばいと言われている所以なのです。

主な一向一揆とその対応

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こうした二つの強みがあった一向一揆。この一向一揆は戦国時代に入ると様々な地域で起こり、そして戦国大名を苦しめていきました。

次は戦国時代にはどの様な一向一揆が起こって行ったのかを見ていきましょう。

加賀一向一揆

一向一揆の代表的なものの一つであり、一向一揆の1番の成功例といってもいいのがこの加賀一向一揆。1467年から始まった応仁の乱によって全国各地で戦乱が起こる様になりますが、加賀国を治めていた富樫家も例外ではなく、応仁の乱の途中で兄弟の家督争いが勃発。

兄である富樫政親という人は蓮如率いる浄土真宗の力を借りて見事家督争いを勝ち抜くことに成功しますが、浄土真宗の力を見た政親は弟を加賀国から追い出すと直ちに弾圧を開始。これに起こった浄土真宗の門徒は20万の兵力を持って政親がいる高尾城を包囲。蓮如が武力行使をするなという手紙を送ったのにもかかわらず、政親を自害に追い込み、加賀国は浄土真宗の門徒が治める「百姓の持ちたる国」へと変貌を遂げ、1580年に石山戦争に敗れるまで加賀国を支配することになるのでした。

三河一向一揆

一向一揆は北陸や畿内中心で起こりましたが、中にはそんな地域とは全く関係のないところで起こり、そしてのちの天下人となる徳川家康を苦しめることとなります。その一向一揆こそ1563年に勃発することになる三河一向一揆でした。

この当時徳川家は今川家から独立して三河を治める大名として復活を遂げることになるのですが、まだ国の中には家康のことをあまりよく思っていない領主も多くおり、今の安城市にあった本證寺という寺を中心として一向一揆が発生。徳川家の家臣は鉄の結束で守られているということはよく聞きますが、実は徳川家の家臣の中にはかなり浄土真宗を信仰している人がかなり多く、のちに徳川家康の重臣中の重臣となる本多正信を始め、たくさんの家臣が一向一揆側に参加。のちに三方ヶ原の戦いや神君伊賀越えと並び立つ家康最大のピンチとして語り継がれる様になりました。

ちなみに、最終的には家康が超甘々な内容で一向一揆側と和睦。これが江戸幕府が寺院を縛り付ける様になった原因だとも言われています。

石山戦争

徳川家康をも苦しめた一向一揆。そしてついに一向一揆の勢力は魔王と呼ばれた織田信長にも向けられることになります。

1568年、この年京都に上洛して将軍の後見人としての立場を手に入れたことを受けて天下統一の事業を開始。所領をどんどん増やしていき、天下人の道を着実に歩んでいきます。そんな信長が気がかりにしていた勢力こそ浄土真宗本願寺派の総本山である石山本願寺でした。

信長はこの石山本願寺に対して莫大な費用の負担やお金の支払いを命令。さらには石山本願寺の活動を厳しく制限したりするなどなるべく一向宗の力を削ぐことに尽力し始めます。しかし、石山本願寺もこのまま黙っていたら信長に潰されるかもしれない。そう感じた石山本願寺は信長が摂津三好家と戦っているときに信長に対して挙兵。石山戦争が始まりついに一向宗と信長の全面対決が始まってしまったのです。

次はそんな石山戦争の最中に起こった二つの一向一揆についてみていきましょう。

長島一向一揆

信長を一番苦しめたと言える一向一揆といえば信長の元々の本拠地である尾張にほど近い長島の一向一揆でした。長島という地域は長島願証寺をはじめとして浄土真宗の寺が沢山立っており、まさしく一向宗の中心地であったのです。

石山戦争が始まると長島にて一斉に蜂起。信長の弟である信興を自害に追い込んだのを始め北伊勢に勢力を伸ばしていき、当時浅井・朝倉の軍勢に悩まされていた信長は大変はまさしく痛いところをつかれたのです。

信長は一応浅井・朝倉を片付けると長島5万の兵力で長島に侵攻。しかし、10万人が守る長島に信長は歯が全く立たず撤退。

1573年の二度目の侵攻も長島の一向一揆の鎮圧までには至りませんでした。

そして1574年。信長は12万の兵力を集めて再び長島を包囲。一向一揆はなんとか耐え忍んで一向一揆の底力を見せるのですが、信長はここで潰さなければならないとしてなんと長島一帯を火攻めにすることに決定。長島の一向一揆の門徒は文字通り全滅し、長島一向一揆は鎮圧されたのでした。

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