幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「禁門の変」長州藩失地回復のための戦いをわかりやすく解説

2-4さまざまな企みに翻弄される日本

会津と薩摩と諸藩らが長州藩を都から追い出すためのクーデターを企てている時、長州では真木和泉らが、孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵や春日神社(現:春日大社)詣での時に攘夷を宣言させる作戦を練っていたのです。しかも、幕府が承知しなければ、将軍を追放して天皇を倒幕攘夷戦の首謀者とすればいいという尋常ではない計画となっていました。流石に孝明天皇も戦の中心人物になるのは御免と中止になったようですが…。

一方、薩摩では文久2 (1862) 年6月28日に、生麦事件の賠償金を求めて、7隻の英国軍艦が湾に入り込んでいました。英国が砲撃を加え、7月2日に「薩英戦争」が勃発したのです。しかし、13人の死者を出した英国は、2日後にサッと引き上げています。この戦争により、薩摩は攘夷などもはや不可能と悟り、藩論を開国へと反転させたのです。

3.「禁門の変」のきっかけとは?

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先ほども触れました通り、かつて長州は朝廷から厚い信頼を得ていたのに、急に公武合体派らの策略により、京を追い出されてしまいます。共に追放された7人の公家や尊王攘夷派たちのたまり場となった長州では、これでは体面が保たれないと、威信を掛けて京に攻め込み失地を回復しようと団結したのです。それでは、「禁門の変」が、起るきっかけは何だったのかを検証してみましょう。

3-1八月十八日の政変

京では薩摩と会津の連合軍の間で、政変奪取の計画が練られていました。薩摩藩の島津久光と京都守護職の会津藩松平容保が同盟を結び、公武合体派の中川宮朝彦親王を仲間に引き入れて計画を実行するのです。会津の兵2000人と薩摩の兵800人の総勢約3000人で、全ての京都の門を固め閉鎖します。

8月18日の朝、いつものように長州藩が持ち場にいくと、「都から立ち去れ!」といわれます。更に、攘夷の志を同じくする三条実美ら7人の公家たちも、京の門を潜ることができなかったのです。3000の兵相手では、一端引くしかないと、再起を図るために引き下がりました。三条実美らの寵愛を受け、大きな影響力を持っていた攘夷派の長州藩が失権したのです。

公武合体派に敗れた、攘夷派の7人の公家たちは、京都を脱出し長州へ落ち延びました。この事件は翌日に雨が降っていたため、「雨の中の七卿落ち(しちきょうおち)」と呼ばれています。長州藩主の毛利敬親やその子毛利定広も、官位を剥奪された上に謹慎を命じられたのです。

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