4-1京へ上る長州軍
7月18日の朝、長州三家老の福原越後、益田親施、国司親相が兵を率い京へ上洛します。こうなることは、京でも予想はついており、会津藩を中心に、薩摩藩や桑名藩が、掃討すべく御所を守っていたのです。御所に到着する前に、迎え撃つ作戦に打って出ます。
夜には、御所内の公家たちにも書状が届いており、恐れおののいていたのです。天皇から御所に呼び出された禁裏御守衛総督の慶喜に、「長州を速やかに成敗せよ」との勅許がおりました。慶喜は急ぎ参内したため鎧もつけておらず、奥方の実家今出川家に届けさせ、そこで着替え戦場に向かったようです。
4-2禁門の変の開戦
7月19日午前3時ごろに長州軍が進軍し、開戦となりました。三家老それぞれが兵を率い、三方から御所を攻撃する作戦を立てます。まず、伏見長州屋敷には、福原隊800人が入りました。伏見街道を北上しますが、残念ながら藤森で大垣藩兵の迎撃に敗れたのです。佐久間佐兵衛と太田一之進の一隊は竹田街道から御所へ向かうも、丹波橋で、彦根会津両藩の前に倒れ山崎に敗走します。
山崎天王山に本陣を置いた益田隊から別れた、国司隊600人は嵯峨天龍寺へ布陣し、蛤御門を目指すも、蛤門と公家門の間で、会津藩と激戦となりました。長州藩が優勢でしたが、桑名薩摩両藩が応援に駆け付け大敗。来島又兵衛は、戦死しました。この蛤御門が最後の激戦地になったため、別名「蛤御門の変」とも呼ばれています。
4-3さらに続く激戦
山崎天王山の益田隊は、浪士隊ら600人が布陣しました。久坂玄瑞と真木和泉勢は、堺町御門に向かったのです。しかし、福井藩兵の厚い防御に阻まれ、鷹司邸裏門から入るも、福井、桑名、彦根藩兵の攻撃を受けた上に、薩摩と会津両兵が加勢し大敗。この邸宅で、吉田松陰の門下生久坂玄瑞や入江九一、寺島忠三郎の3人が戦死や自刃して果てています。また、真木和泉は、山崎に下りました。
市中で勝利した、会津、桑名、彦根、郡山藩兵と新選組は、7月21日に天王山に向かいます。真木はここで、藩主らに会わす顔がないと同山中にて同志らと自刃しました。「大山の峯の岩根に埋にけり わが年月の大和魂」という辞世を残しています。新選組の生き残りはたったの60人。40名は戦死しています。長州軍は強く、激戦へと持ち込んだことがわかりますね!
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4-4禁門の変のその後
長州勢は中立売御門を抜き、禁裏へと迫る活躍をしています。西郷隆盛率いる薩摩軍が加勢するまでは、優位だったとか。しかし、激しい砲撃戦となり、長州勢は退却せざるを得ませんでした。残念!破れた長州は、御所への砲撃の咎を受け、「朝敵」の烙印を押されています。
上京途中にあった世子は、7月21日に讃岐の多度津で敗報を聞きました。五卿と共に長州へ、ただちに帰国しています。鷹司邸から出た火は京都を火の海にしました。20日には、大火が広がり六角獄に繋がれていた囚人たち33名は斬殺されたのです。この中には、生野の変の首謀者平野国臣や池田屋事件の古高俊太郎もいました。
激怒した孝明天皇は、7月23日に慶喜に長州討伐の勅命をくだします。その理由は、朝命を受けながらも、あえて大兵を引き連れ、禁裏に迫ったからでした。禁門の変で、亡くなった長州兵は265人だったとか。会津60名、薩摩8名など、迎え撃った幕府側は97人。長州の完敗でした。
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ちょっと雑学
「禁門の変」で大敗し願いが叶わず、更に屈辱を受けた長州藩は、履物の裏に「薩賊会奸(サツゾクカイカン)」と書き、踏みつけるように歩いていたとか。それほど激しい恨みを抱いていたのでしょう。
「禁門の変」で大敗した長州藩は、都を追い出された恨みも晴らせず藩の面目も丸つぶれに終わった
消沈していた長州藩の急進派は、池田屋事件で大激怒し息を吹き返しました。八月十八日の政変で受けた、藩主の冤罪を晴らす名目のもと大挙上洛したのです。願いもむなしく「禁門の変」で大敗し犬猿の仲となっていた薩長が、坂本龍馬らの仲介により「薩長同盟」を結び、後に明治維新を牽引する存在になるとは、この頃には思いもよらなかったことでしょう。
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