幕末日本の歴史江戸時代

薩英戦争とみかんの関係って?みかんの名に残る両者の敬意を解説

イギリスでは温州みかんのことを「サツマ」ということがあります。イギリスと薩摩の密接なかかわりを暗示する名ですが、幕末の一時期、薩摩藩とイギリスは戦争状態にありました。薩英戦争です。戦いの後、互いの実力を知った両者は急速に接近。明治維新達成の原動力の一つとなりました。今回は薩英戦争についてわかりやすく解説します。

薩英戦争の背景

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薩英戦争が起きる直前、日本の政治は混迷した状況にありました。開国を決め、反対者をことごとく弾圧した井伊直弼が桜田門外の変で殺害されたからです。その後、事態を収拾しようとした老中安藤信正も坂下門外の変で失脚。幕府が混乱する中、俄然、存在感を増したのが薩摩藩でした。

幕府政治の混乱

幕末の混乱を強硬手段を使っても収拾しようとしたのが大老の井伊直弼です。日米修好通商条約を勅許なしに調印した井伊直弼に対し、反対派が「朝廷の軽視だ」と批判。井伊は反対派を一網打尽にして処罰しました。この弾圧事件を安政の大獄といいます。

しかし、これは逆効果でした。前藩主の徳川斉昭を水戸に閉じ込められた水戸藩の一部は脱藩して井伊直弼を襲撃。いわゆる桜田門外の変です。井伊直弼は登城の途中、桜田門のそばで水戸浪士に討ち取られました。

その後、朝廷と協力する公武合体の立場で幕府をまとめようとした老中の安藤信正も坂下門外の変で失脚。以後、幕府政治を主導する強力なリーダーは徳川慶喜の将軍就任まで現れません。混乱する幕府をしり目に存在感を増したのが長州藩や薩摩藩といった西南雄藩でした。

薩摩藩の台頭

薩摩藩は幕末随一の経済力と軍事力を持っていました。その理由は藩士調所広郷による藩政改革が成功したからです。調所は薩摩藩が抱えた膨大な借金を帳消しにしました。さらに、奄美大島特産の黒砂糖の専売化や琉球貿易の促進などを推進して財源を確保します。

調所広郷が自殺した後は、藩主の島津斉彬が藩政を主導。鉄鉱石をとかし、大砲を鋳造するために必要な反射炉の建設や集成館という藩営工場をつくるなど、科学技術の振興に力を入れます。

斉彬は下級藩士の登用にも力を入れ、西郷隆盛を見出すなど人材登用にも積極的でした。斉彬の死後、弟の島津久光の子が藩主となります。その結果、久光は藩主の父として藩政の実権を握りました。

こうして強大化した薩摩藩の動きを幕府も朝廷も他の大名も無視することができません。薩摩藩・島津家は幕末政治を動かすキープレイヤーとして注目されていきます。

島津久光の上洛と文久の改革

坂下門外の変の後、幕府政治は混乱状態に陥ります。このままでは外国の良いようにされてしまう。島津久光の危機感は募りました。久光自身は幕府と朝廷が力をあわせて国政にあたるべきという公武合体の立場。その実現のために動きます。

1862年、島津久光は兵を率いて上洛。寺田屋事件で藩内の過激派を弾圧したのち、勅使の大原重徳をともなって江戸へ向かいました。

江戸についた久光は幕府に改革を要求します。徳川慶喜を将軍後見役とし、松平慶永を政治総裁職につけること、参勤交代を緩和すること、軍政を改革することなどを幕府に要求し受け入れられました。この改革を文久の改革といいます。

幕政改革を約束させた久光は意気揚々と引き上げましたが、帰路に大事件を引き起こしました。その事件が薩英戦争のきっかけとなった生麦事件です。

薩英戦争の経緯

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生麦村で薩摩藩の大名行列がイギリス人を殺害したことでイギリスは猛抗議。幕府はイギリスの強硬姿勢に屈し、賠償金を支払います。一方の薩摩藩はイギリスの要求に応じません。怒ったイギリスは艦隊を鹿児島に差し向けました。こうして、薩摩藩とイギリスが正面から戦う薩英戦争が起こったのです。

生麦事件の発生

文久の改革を成し遂げた島津久光は京都に向かって大名行列を進めていました。1862年9月14日、イギリス商人のリチャードソンらが横浜の生麦村周辺で島津久光の行列と遭遇します。

リチャードソンらは下馬して道を譲るのが礼儀である大名行列に対して、まったく下馬しようとしません。この様子を無礼とみなした薩摩藩士はリチャードソンらを切りつけます。薩摩藩士に襲われたリチャードソンは殺され、一緒にいた2人もケガをしました。

この事件は横浜の居留地にいた外国人たちを激高させます。英国公使(国を代表する外交官で大使の役割)のニールは外交交渉による事件解決を図りました。

ニール公使は幕府を通じて犯人の引き渡しを要求。しかし、薩摩藩は犯人は浪人であり薩摩藩士ではないと主張して引き渡しを拒否しました。また、イギリスは賠償金を幕府と薩摩藩に要求します。幕府は支払いに応じましたが薩摩藩は拒否しました。

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