京都守護職となった若き貴公子
松平容保は生粋の会津の生まれではありません。しかし彼は会津の風土に触れ、会津の人たちに触れ、次第に会津という土地を愛するようになっていきました。彼の生い立ちから京都守護職になるまでを見ていきましょう。
容保、会津藩主の養子となる
徳川家の血筋というのは、時としてものすごい子宝に恵まれるケースがあるようです。11代将軍家斉しかり、水戸徳川家の斉昭しかり、数十人もの子供が生まれることも珍しくはありませんでした。そのため生まれた男子はどしどし他家へ養子に出されることになりました。
美濃高須藩主、松平義建もその血脈の一人にあたり、彼の子供もまた尾張徳川家や一橋徳川家など、栄転ともいえる養子縁組を結んでいますね。何せ高須藩はわずか5万石の小藩ですから、大藩へ養子に出されるということは願ったり叶ったりの栄誉だったでしょう。
容保は義建の六男として誕生しますが、そのままでは部屋住みの身で終わるところを、なんと親藩格ともいえる会津藩主松平容敬の養子となったのです。
幼名を銈之允(けいのじょう)と名乗った彼は、わずか8歳で会津へ移ります。
容保の人格を育んだ会津の風土
人間とは幼少期にどのような教育を受けたか?によって人間形成が決定付けられるものです。容保が幼少の頃に移った会津藩とはどのようなところだったのでしょう。
会津藩祖保科正之は徳川家康の孫にあたり、いわば徳川家直系の連枝ともされる家柄。家光・家綱と将軍を補佐し、幕府の屋台骨を支えた人物でした。かつ東北地方の諸藩の動向を監視する、いわば北の抑えとしての役割も担っており、諸藩の中でも親藩に次ぐ格式だったのは疑いないところでしょう。
そのため代々の会津藩主たちも「徳川将軍家や天皇を支えることこそ大事」として非常に儒教精神を重んじていました。会津の厳しい気候風土と相まって、藩士たちも己に厳しく、かつ上下関係を重んじ、物事の筋道を大事にするという気風が醸成されていたのです。
会津藩士たちの気風を表すものとして、「什(じゅう)の掟」というものがあります。「什」とは藩士の子供たちの集まりのことで、その中で情操教育の基礎を学んでいたのです。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、虚言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
こういった気風の中で、容保も多くを学び、藩士たちが10歳になると入学できる藩校日新館において、文武両道や儒教的精神を研鑽しました。ここでの学びが、のちの容保の行動哲学となったのです。
やがて藩主容敬が亡くなり、若干17歳で容保は会津藩主となりました。
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京都守護職となった若き容保
不明。 – 会津若松市所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる
藩主となった容保は、幕命によって様々な役目を与えられました。若年であるにもかかわらず、何事もそつなくこなす容保の存在感や評価は幕府内でも徐々に高まっていったのです。
容保への信頼感が決定的になったのは、1860年、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変でした。実行犯は水戸藩を脱藩した浪士たちでしたが、責任を追及された水戸藩が処罰される寸前のところを、容保の取りなしによって事なきを得たのです。この時の容保の見事な行動力によって幕府と水戸藩の関係修復が成り、第14代将軍家茂も大いに信頼を寄せることになりました。
折しも全国で尊王攘夷運動が巻き起こり、幕府は苦肉の策として孝明天皇の妹和宮を家茂の正室として降嫁させた矢先のことです。公武合体(皇室と幕府が一体になること)に反対する公家や過激派らの動きが幕府を悩ませることとなり、彼らの動きを抑える必要性が高まったいました。
そうした中、容保に白羽の矢が立ったのです。京都守護職として天皇家を過激派からお守りし、かつ京都の治安を維持するという難しい役目でした。
自らの体調不良や自信のなさを理由として、容保は就任を固辞。また西郷頼母ら重臣たちも長く国元を空けることによる経済的疲弊を理由に反対しました。
しかし一橋慶喜や松平春嶽らは「徳川家へ忠節を誓い、その御楯となって尽くすのが会津の家訓ではないか!」と容保を説得。事ここに至って容保もついに承諾せざるを得ませんでした。
時に1862年。容保28歳のことでした。
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