若き日の田中角栄
現在の新潟県柏崎市に生まれた田中角栄は子供のころから勉学に優れていました。小学校を卒業した田中は上京し、住み込みで働きながら中央工学校の夜間部に通います。徴兵され満州で兵役をつとめたのち、田中建築事務所を開業しました。田中建築事務所は理化学研究所などからの受注を軸とし急成長を遂げます。
少年時代
田中角栄は新潟県刈羽郡二田村に生まれました。角栄の父である田中角次はコイの養殖事業や種牛の輸入などの事業をおこないますが失敗。そのため、子供のころの田中家は極貧だったといいます。
幼いころ、角栄は吃音症(どもり)でした。思うように声が出せない角栄は浪花節の朗誦や、裏山で大声をだして漢詩を暗唱するなどして克服します。勉学の面では非常に優秀で小学校時代は常に級長をつとめていました。子供のころからリーダーシップがあったのかもしれませんね。
戦前の教育制度の場合、尋常小学校の次が現在の中学校に相当する高等小学校、その後は進路に応じて様々な選択肢があります。角栄の場合は尋常小学校から二田高等小学校に進学。卒業後は旧制中学には進学せず土木工事の現場で働きました。その後、地元柏崎の県土木派遣所に勤めます。
上京、事業開始、兵役
1934年、角栄は理化学研究所の所長だった大河内正敏が書生を募集しているという話を聞きつけ、上京しました。しかし、実際に東京についてみると話が行き違いとなっていて書生となることはできませんでした。
仕方なく、角栄は井上工業に就職し住み込みで働くことにします。このころ、角栄は働きながら中央工学校の土木科に通いました。といっても、昼間は働いていたので夜間部での勉強です。
ほどなく、井上工業を辞めた角栄はいくつかの職を転々としました。1936年、18歳になった角栄は中央工学校土木科を卒業。1937年に独立して共栄建築事務所を立ち上げ社長となりました。
1938年、角栄は徴兵され騎兵として満州に配属されます。しかし、肺炎を発症して1941年に除隊しました。帰国後、角栄は田中建築事務所を開設。事業を拡大させていきました。
国会議員、田中角栄
第二次世界大戦後、田中は国会議員となり本格的に国政に携わります。角栄は新潟など豪雪地帯の人々の貧困解消を自らの悲願としました。国会議員となった角栄は自由民主党の結党に参加し、急速に権力への階段を上り始めます。39歳で郵政大臣、43歳で自民党政調会長、44歳で大蔵大臣と政府や党の要職を次々と歴任しました。
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田中の地元、新潟県の地理的条件
江戸時代、新潟県を含む日本海沿岸は豊かな農業生産力と北前船や西回り航路を行く船の移動によって繁栄していました。明治維新以後、日本の開発は首都となった東京を含む太平洋側中心に行われ、日本海側は開発から取り残されます。
田中角栄の地元である新潟県は全国屈指の豪雪県です。冬に日本海から吹く湿度の高い北西の季節風は越後山脈によって遮られ、その手前である新潟県に大雪を振らせました。そのため、冬には農業を営むことが不可能となります。新潟県の農家では仕事のない冬場は全国各地へ出稼ぎに出なければ生活が困難でした。
首都がおかれ産業の中心となっていく太平洋側と取り残された日本海側。二つの地域の格差は大きなものとなっていきます。角栄は豪雪地帯の貧困解消を政治家としての悲願の一つとしました。
国会議員に当選
1946年、進歩党への献金がきっかけで新潟2区から衆議院議員選挙に出馬しました。この時、角栄は「三国峠をダイナマイトで吹き飛ばせば、冬の季節風が太平洋に抜けるので新潟に大雪が降らなくなる」などと演説して話題となります。この時の選挙は定員8に対して37人中11位で落選してしまいました。
1947年の第23回総選挙に民主党から出馬した田中は徹底したドブ板選挙を行います。ドブ板選挙とは、候補者や運動員が小規模集会や徒歩で街頭を回り、一人一人に支持を訴える地道な戦法のこと。角栄は山間部の小集落をめぐって支持を訴えました。
他の有力議員と違い、市街地のみで選挙戦を展開せず選挙区の隅々まで回る田中の姿に有権者は心を動かされたのかもしれません。投票の結果は定員5名、候補者12人中3位で見事当選を果たしました。
後日、首都圏と新潟方面を結ぶ三国隧道や上越新幹線などが開通します。三国峠を吹き飛ばすことはできませんでしたが、政府や国民の目を新潟県に向けるきっかけになったことでしょう。
自由民主党の結党に参加
第23回総選挙の結果、民主党は日本社会党、国民協同党とともに片山内閣の与党となります。1947年11月、片山内閣は炭鉱を国家が管理する法律を出しましたが田中は法案に反対。本会議で反対票を投じます。民主党から離党勧告をされた田中は同志と共に民主クラブを立ち上げました。
1948年3月、民主クラブは吉田茂率いる日本自由党と合同。新政党である民主自由党(のち、自由党)となりました。
1948年10月、昭電疑獄で芦田内閣が総辞職すると、第二次吉田内閣が成立します。田中は自由党内で力を増し、1954年には自由党の副幹事長となりました。
1955年、二つに分かれていた日本社会党が統一。社会主義勢力拡大の兆しが見えました。これを受けて保守勢力の自由党と日本民主党が合同し自由民主党が結成されます。以後、日本は自由民主党と日本社会党を中心とする55年体制となりました。田中は活躍の場を自由民主党へと移します。