幕末日本の歴史江戸時代

日本を開国させた「日米和親条約」日本初の日米交渉について解説

今でこそ日本の同盟国であるアメリカ。しかし、アメリカが初めて使節を送った時には日本はかなりてんやわんやしていました。 しかし、日本が弱腰で挑んだとされる日米交渉は実は対等に渡り合ったとされているのです。今回はそんな日米和親条約と日本とアメリカの初めての交渉について見ていこうと思います。

そもそも日米和親条約とは?

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日米和親条約とは1854年にアメリカと日本の間で結ばれた条約のことです。

日本は江戸時代を通して鎖国という限られた国とした交易しないという状況を作っていましたが、この日米和親条約の締結によって日本の鎖国体制は終わりを告げるようになりました。

この日米和親条約によって下田・函館の開港と最恵国待遇とアメリカへの食糧供給が認められ下田にて初めて外国人の総領事館が置かれることになったのです。

日米和親条約のあらまし

江戸時代を通して一貫として鎖国体制を続けた日本。しかし、19世紀に入るとそんな日本の鎖国体制に非常に困る国が現れるようになりました。

まずは日米和親条約を結ぶきっかけとなった黒船来航とどうしてアメリカが日本と条約を結ぶようになったのかを見ていきましょう。

外国人が襲来してくるようになった日本

19世紀に入るようになるとヨーロッパを中心に産業革命が勃発。イギリスを初めとしたヨーロッパの国は我先にと貿易先の国を求めていたのです。そんな中イギリスとロシアが極東の島国であった日本という国に注目し始めます。

ロシアはエカチェリーナ2世の時代にロシアに漂流した大黒屋光太夫を使ってラクスマンを根室に派遣。日本との貿易を要求しました。

一方のイギリスは1808年にフェートン号事件で日本に来襲したことをきっかけに大津浜事件や宝島事件など日本に対して熱心な開国を求めました。

しかし、日本からしたら鎖国体制は徳川家光から代々受け継がれていったルール。ほいそれと変えることはせずに逆に外国人の船が日本近海を通過した際には大砲を使ってぶっ飛ばすという異国船打払令というとんでもない法律を制定するようになりました。

アヘン戦争と薪水給与令

こうして異国船に対してものすごく強硬派となった日本は1837年に長崎にやってきたモリソン号にも異国船打払令を適用して追っ払いました。しかし、このモリソン号はイギリスやロシアのように来襲したり通商を求めたりするのではなくただ単に漂流民を助けて送り返しただけ。打ち払われるような行動を犯していなかったのです。そのためこの日本がモリソン号を打ち払ったいわゆるモリソン号事件は諸外国からブーイングをもらい、さらには日本の蘭学者にも批判されました。

また、1840年にお隣の超大国であった清がイギリスにボコボコにされた(アヘン戦争)という情報を聞いて「これはまずい」と判断。

1842年には天保の薪水給与令を発令して遭難した時に限り異国船に補給することを認めるという法律を出したのでした。

補給基地が欲しかったアメリカ

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さて、ここまでは日本と異国船の関係についてみていきましたが、この時期新大陸の新興国家であるアメリカは日本という国をとある面で重要視していました。

果たしてアメリカはどのような面で日本を重要視していったのでしょうか?次はそんなアメリカか日本を開国させるようになったきっかけに迫ろうと思います。

西海岸を手に入れたアメリカ

日本では江戸時代中期に当たる1776年。この時新大陸であるアメリカがイギリスから独立を果たしました。その後アメリカは西に向かって領土を拡大。インディアンを追い出したりしながら開拓し始め1846年に起きた米墨戦争によってサンフランシスコを含む西海岸を割譲してついに西海岸へと到達。太平洋へと貿易する道が拓けました。

ちなみに、日米和親条約のアメリカの代表であるマシュー・ペリーはこの米墨戦争で活躍した軍人の1人だったのです。

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