幕末日本の歴史江戸時代

法律は大事です!薩英戦争のもとになった「生麦事件」について解説!

行くとなればウキウキ気分となるであろう海外旅行。もちろん楽しい部分もありますが、一つ注意しておきたいのが外国の法律やルール。 所変われば文化も違いますので、法律も日本と全く違う国も多々ありますが、外国人にとっても日本の文化は海外と比べるとかなり難しいものだと思われていたのです。 今回はそんな文化の違いが招いた悲劇である生麦事件と外国の法律を知る大切さについて解説していきたいと思います。

生麦事件が起こる前日譚

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生麦事件が起こる9年前。鎖国をしてオランダ以外のヨーロッパの国との交流を絶っていた日本はアメリカから突如現れたペリー使節と日米修好条約を結び下田と箱館を開港。これによってアメリカ人やヨーロッパ人などが日本に来ることが可能となりました。

しかし、完全この時外国人が日本中を歩けるようになったのかというとそうではなく、この頃の日本は幕府と藩の2層構造となっていたこともあり、下田や箱館付近の地域が限界でした。

しかし、アメリカのタウンゼント・ハリスがさらに1858年に日米修好通商条約を締結。

これによって箱館・下田の他に新潟・兵庫(神戸)・横浜・長崎が開港し、また江戸や大坂などで商売することが可能となったのです。

外国人の排斥事件

こうして日本に外国人がやってくるようになりましたが、この外国人が江戸や大坂などに入ってくるようになった原因である日米修好通商条約はいわゆる不平等条約で、関税自主権の喪失や、領事裁判権などの日本にとってかなり不利な条約でした。さらに外国から安い商品がたくさんもたらさられていくようになると日本の産業は壊滅状態となり、日本人の外国人に対する感情は最悪なものとなってしまいます。

この頃日本には攘夷という「外国人を日本から出て行かせる」という考え方が浸透していくようになり、江戸時代末期になると外国人の殺害事件が横行。

東禅寺事件(ヒュースケン殺害事件)など外国人にとったらかなり恐ろしい事件が起こってしまったため、幕府は外国人に対して周辺に番所や関門を設け、さらに遊歩限度という江戸に入る制限をかける制度も作るほど、厳重警備体制にしたのです。

 

生麦事件の概要

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このようにして日本には外国人に対する憎悪がありましたが、幕末のころになると外国人はこの日本という国を大変気に入っており、日本を観光する人が増えていたんだとか。しかし1862年に武蔵国生麦村にて生麦事件が起こることになります。

次はどのようにして生麦事件が起きてしまったのかについて見ていきましょう。

事件の勃発

外国人が日本にやってくるようになった1862年。この年薩摩藩の実質的なトップであった島津久光は幕府の政治改革を行うために江戸に出向きいわゆる文久の改革を行いました。

この文久の改革はある程度うまくいき、8月21日に江戸をたつことになるのですがその薩摩に向かう大名行列が現在の神奈川県横浜市鶴見区にあたる生麦村に差し掛かったあたりでイギリス商人であったチャールズ・レノックス・リチャードソンら4人と遭遇します。

このチャールズ・レノック・リチャードソンは横浜にて商売を行いながら休暇には横浜から近くこの頃には外国人の観光スポットとなっていた川崎大師へ観光にいくところだったのでした。

しかし、この当時大名行列は日本人ですら横切ると斬り殺されてもおかしくないものであり、ましてや憎悪の対象となっていた外国人が横切るなんてまさしくありえないことだったのでした。総領事館はそのことをよく分かっているので外国人に対して「大名行列を横切ることは日本では厳禁なんだよ」と言っていたはずなんですが、やはり日本の文化をあまり知らない外国人にとったら「日本では大名行列は大切だけど殺されるまではいかないだろう」と思っていたのです。

当時イギリス公使館の通訳の見習いであったアーネスト・サトウの日記には「イギリス人は大名行列の藩士たちに行列を横切るなど言われたが、引き返した結果行列を乱してしまったので藩士によって斬り捨てられた」とされています。

イギリスとの揉め事に発展

こうして起こってしまった生麦事件。

外国人の反応はというと日本の慣習にのっとらなかった外国人が悪いという形となっていましたが、イギリス公使館からするとこのことを黙って見ているわけにはいきません。

イギリス公使館は当時日米修好通商条約には領事裁判権があり、日本が勝手に罪をさばいてはいけないのに勝手に斬り捨ててしまったという形で薩摩藩に対して2万5千ポンドの賠償金と犯人の引き渡しを命じます。

イギリスは幕府とも交渉を行い、こちらは賠償金を支払いことで合意は取れましたが、一方の薩摩藩はどうだったというとイギリスの命令を完全にシカト。

アヘン戦争で清をボコボコにしたイギリス戦艦7隻を鹿児島湾に入港させるなどの脅しをかけますが、交渉が全く進まない上にさらに薩摩の船がイギリスによって拿捕されたことを知ると薩摩藩はイギリス艦隊に砲撃を開始。

いわゆる薩英戦争の幕が開けたのです。

一周回って仲直り

こうして始まった薩英戦争。

『眠れる獅子』を打ち倒したイギリス艦隊相手ですからボコボコにされると思いきや、薩摩側は鹿児島市街地は被害を受けたもののある程度のイギリス艦隊に打撃を与えることに成功し、講和会議で薩摩藩は2万5千ポンド(幕府からの借金)を払うことで合意。

イギリス側もイギリス人は殺されたものの、イギリス艦隊とためを張れるほどの成果を上げた薩摩藩のことを高く評価するようになり、イギリス公使館はここから薩摩藩との貿易を加速させていくことになります。

一方の薩摩藩もこれまでの攘夷思想だと偉大な艦隊を持っているイギリスに太刀打ちすることはできないと判断し、薩英戦争はイギリスとの交流を推進していくこととなりました。

日本とヨーロッパの文化の違いから起こった悲劇的な事件である生麦事件は薩英戦争に発展し、そして薩摩藩は倒幕へと舵を切って日本の未来を変えていくようになったのです。

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