神倭伊波礼毘古こと「神武天皇」の東征伝説を元予備校講師がわかりやすく解説
記紀に記された神武天皇の系譜
歴史書である『古事記』や『日本書紀』によれば、神武天皇は天上界である高天原(たかまがはら)を治める天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫とされます。天照の孫である瓊瓊杵尊は現在の宮崎県にあたる日向国に降り立ち、統治を始めました。『古事記』や『日本書紀』の内容を見つつ、神武天皇以前の日本についてまとめます。
こちらの記事もおすすめ
記紀とは何か
飛鳥時代から奈良時代にかけて、大和朝廷は歴史書の編纂を進めました。飛鳥時代に聖徳太子と蘇我馬子が協力して編纂したのが『国記』と『天皇記』です。
大化の改新の時、蘇我蝦夷の屋敷にあった『国記』と『天皇記』は戦火に巻き込まれました。そのうち、『国記』は運び出されましたが、『天皇記』は失われたといいます。しかし、『国記』も現存していません。
奈良時代に入ると、『古事記』と『日本書紀』という二つの歴史書が編纂されます。この二書が現存する最古の歴史書で、あわせて記紀とよばれますね。二書とも神話の時代から書き起こされています。
時代が執筆年代である奈良時代に近づくにつれ、神話というよりも歴史書の色合いが強まりますね。奈良時代以前の歴史について詳しく書いた書物はほとんどないため、記紀は現代でも貴重な資料とされます。
こちらの記事もおすすめ
飛鳥時代とはどんな時代?聖徳太子・蘇我氏・「倭」から「日本」へ – Rinto~凛と~
日本を生み出す「国生み」の儀式を行ったイザナギとイザナミ
神話の時代、神々は天空の上の国である高天原に住んでいました。神々のうちイザナギとイザナミが地上に降り、淡路島から四国、本州、九州などの島々や多くの神々を生み出します。これを「国生み」といいました。
しかし、イザナミは火の神を産み落としたときに大やけどをして亡くなります。そのことを悲しんだイザナギはイザナミが行った黄泉の国へと下りました。
地上に連れ戻すため黄泉の国まで会いに来たイザナギに対し、イザナミは「黄泉の国の神と相談するので待ってほしい」といいます。しかし、イザナギは待ちきれず火を灯してあたりを見回しました。
すると、そこには腐りはてたイザナミの死体があるではありませんか。驚きと恐怖のあまりイザナギは地上へと逃げ帰ります。
怒り狂ったイザナミは地上と黄泉の国を結ぶ「黄泉比良坂」まで追いかけました。イザナギは大岩で黄泉比良坂をふさいでイザナミから逃れます。
こちらの記事もおすすめ
皇室の祖先神である天照大神
命からがら地上に逃げ戻ったイザナギは、黄泉の国で浴びてしまった穢れを払うため全身を洗い流します。その時、イザナギの鼻から須佐之男命(スサノオノミコト)、右目から月読命(ツクヨミノミコト)、左目から天照大神が生まれました。
イザナギは天照大神に高天原を須佐之男命に海を治めるよう命じられます。しかし、須佐之男命は母であるイザナミに会いたいと泣き続けたためイザナギによって追放されました。
のちに、高天原を訪れた須佐之男命は高天原で乱暴を働き、ショックを受けた天照大神は天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまいます。天照大神が姿を消すと、地上から光が失われました。
困り果てた神々は知恵の神である思金神(オモイカネノカミ)らの知略と天宇受賣命(アメノウズメノミコト)の踊りによって天照大神を天岩戸から出すことに成功します。その後、須佐之男命は高天原から追放されてしまいました。
天孫降臨
ある時、高天原をおさめていた天照大神は自分の子である天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)に天から地上である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」に降って地上を統治せよと命じました。
天忍穗耳尊は「地上に降りる準備をしている最中に子である瓊瓊杵尊が生まれました。瓊瓊杵尊をこそ、地上の支配者にするべきです」と天照大神に進言。天照大神はこれを受け入れ、地上には瓊瓊杵尊が派遣されることになりました。
天照大神や瓊瓊杵尊など高天原に住む神々を「天津神(アマツカミ)」といい、瓊瓊杵尊が地上に降り立つ前から地上にいた神々を「国津神(クニツカミ)」といいます。
瓊瓊杵尊が地上に降りようとした時、国津神の猿田彦(サルタヒコ)が案内役を務めました。瓊瓊杵尊が高天原から日向の高千穂の峰に降り立ったことを天孫降臨といいます。瓊瓊杵尊と子のホオリノミコト、孫のウガヤフキアエズノミコトを日向三代といいました。