室町時代戦国時代日本の歴史

自分の家を犠牲にして主家を救った忠義の武将「小早川隆景」の遠望深慮とは

戦国武将・毛利元就(もうりもとなり)が、3人の息子たちに、「1本の矢なら折れやすいが3本なら折れない」と言って、兄弟の団結を促した逸話は有名ですよね。この息子たちのうちのひとりが、今回ご紹介する小早川隆景(こばやかわたかかげ)です。養子に出た後も、彼はその思慮深さと智謀で実家を支え続けました。常に一歩以上先を見据えて動く洞察力の高さは、他の武将の追随を許しません。そんな隆景の生涯を見ていくことにしましょう。

毛利元就の息子から小早川氏への養子入り

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中国地方に君臨した戦国武将・毛利元就の息子として生まれた小早川隆景は、父の政治戦略の一環として、小早川氏に養子入りします。そして小早川氏を率いることになった彼は、実家の毛利氏を常に助け、毛利氏を支配していた大内氏の排除に成功しました。名将の片鱗がすでに垣間見えるようになった、彼の若かりし時代を見ていきましょう。

毛利氏から小早川氏へ

小早川隆景は、天文2(1533)年、安芸(あき/広島県)の戦国武将・毛利元就の三男として誕生しました。長兄には毛利隆元(もうりたかもと)、次兄に吉川元春(きっかわもとはる)がいます。

元就はやがて中国地方に覇を唱える一大勢力となりますが、この頃はまだ大内義隆(おおうちよしたか)に従っていました。しかし水面下では着々と基盤づくりをすすめており、彼が行ったのが、家督を継ぐ息子以外を周辺豪族の家へ養子入りさせることだったのです。そうすれば、姓は違えど毛利氏であるのと同じことですからね。

また、ちょうどこの頃、毛利氏と遠い姻戚関係であった小早川興景(こばやかわおきかげ)が戦死してしまい、その家臣たちが後継者として隆景を望んだのです。こうして天文12(1543)年、隆景は小早川氏へ養子入りを果たしたのでした。ちなみに、この数年後、次兄の元春も吉川氏へと養子に入っています。

生涯、妻だけを愛した愛妻家

小早川氏にも支流と主筋があり、隆景が入ったのは支流の家の方だったのですが、紆余曲折を経て、彼は両家の合同当主の座に就きました。この際に政略結婚で主筋の娘・問田大方(といだのおおかた)を正室に迎えた隆景は、子供ができなかったものの生涯側室を迎えず、彼女ひとりを愛し続けたそうです。そんなところからも、隆景の真面目な性格が感じられますね。実は、父・元就も隆景らの実母が存命のうちは彼女一筋で、兄たちも正室を本当に大事にしたそうです。こういうところは血筋なのかなとも思いますよ。

そして、小早川氏の当主となった隆景は、15歳で果たした初陣では、単独で砦を落とすなど功績を挙げて大内義隆から激賞されています。すでに名将としての素質が十分であることをうかがわせる船出でした。

水軍を率いて父の独立を助ける

小早川氏は水軍で有名な一族でした。隆景はこれを指揮下に置き、以後、実家である毛利氏に加担してその勢力拡大に貢献することとなっていきます。

やがて、毛利が仕える大内氏では騒動が持ち上がりました。主の大内義隆が戦に興味をなくして放蕩三昧となり、家臣の陶晴賢(すえはるかた)によって討たれ、実権を明け渡してしまったのです。

これを見た隆景の父・元就は、今こそ独立の好機と見るや、陶晴賢との戦いを決断しました。そして弘治元(1555)年、厳島の戦いが勃発。もちろん、隆景は兄・吉川元春と共に父・元就や兄・隆元に助力し、4倍から5倍にも及ぶ敵方を見事に打ち破ったのでした。

毛利の「両川」として存在感を増す

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父が隠居すると、隆景は兄を助け、いっそう実家を支えることに尽力しました。兄が急死してからは、若い甥を補佐し、懸命に毛利のために尽くしていきます。その活躍は、軍事面だけではなく、内政や外交など多岐にわたり、隆景は毛利氏にとって屋台骨となっていきました。兄・元春と共に「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた隆景の活躍をご紹介します。

兄の急死により、いっそう実家に尽くすようになる

元就の隠居後、毛利氏の家督を継いだのは長兄の隆元でした。しかし、この隆元はわずか6年後に41歳の若さで急死してしまうのです。その跡継ぎである甥の輝元(てるもと)は、まだ11歳の少年でした。

このため、隆景は以前よりもいっそう毛利氏のために粉骨砕身するようになります。軍事面は勇猛な兄・吉川元春に任せ、隆景は主に内政と外交を担うようになりました。もともと思慮深く、常に冷静な態度を崩さない隆景は、周辺諸将との息詰まる外交交渉にうってつけだったのです。隆景と元春の存在感は、毛利氏の重臣という言葉では語れないほど大きなものとなり、やがて2人は名字の「川」の字を取り、毛利の「両川(りょうせん)」と称されるようになりました。

また、隆景は、輝元に対してはとても厳しい態度で接しました。親を早くに亡くして哀れだという思いはあったでしょうが、何より輝元に毛利氏を背負って立つ立派な人物になってほしいという考えがあったからです。

幼い甥の代わりに外交や軍事を担う

幼い輝元の後見は、隠居した父・元就が行いました。そして、軍事や外交などはすべて、隆景や元春ら家臣団が行ったのです。

まずは、毛利氏長年の宿敵だった尼子(あまご)氏との戦いに決着をつけ、その後は瀬戸内海の向こう側の伊予(いよ/愛媛県)に出兵し、ついには九州地方にも手を広げて大友氏とも戦火を交えるようになりました。一介の安芸の戦国武将だった毛利氏は、九州や四国にまで勢力を広げる一大勢力となっていったのです。

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