- 6世紀の大和朝廷と崇峻天皇暗殺
- 暗殺された崇峻天皇の歴史の扱い
- 6世紀の大和朝廷の大王(天皇)は跡継ぎがいなくなり、豪族が力を持った
- ついに大王家の断絶の事態に
- 応神天皇の5世の孫継体天皇を擁立
- 継体天皇と仁賢天皇の娘の婚姻による正統性の持続
- 継体天皇の即位によって大和豪族が力を持つ結果に
- 仏教伝来による蘇我氏と物部氏の対立
- 天皇家との婚姻関係によって力を持つ蘇我氏の台頭
- 蘇我馬子による物部氏の討伐と崇峻天皇擁立
- 権力を握った蘇我馬子が崇峻天皇を擁立
- 崇峻天皇の政治姿勢は蘇我氏憎しへ
- 蘇我馬子による崇峻天皇殺害の計画
- 裏切られた東漢一族のあわれさとその後の蘇我馬子
- 蘇我氏の権力独占によって天皇家(大王家)に権力回復の願望が生まれる
- 権力争いの犠牲になった崇峻天皇と現代の様相
この記事の目次
6世紀の大和朝廷と崇峻天皇暗殺
6世紀の大和朝廷といわれた日本を統治していた政治の中枢は、大和の豪族に握られ、天皇の即位さえも彼らに握られていました。彼らの承諾がなければ天皇位に就くこともできなかったのです。とくに6世紀後半には蘇我稲目(いなめ)・馬子父子の蘇我氏と物部尾輿(おこし)・守屋(もりや)を中心とする物部氏の力が強くなっています。仏教崇拝を進める蘇我氏と古代からの神道を重視する物部氏はことあるごとに対立していたのです。そのようななかで蘇我氏が物部氏滅ぼして、蘇我氏を後ろ楯にして即位したのが崇峻天皇でした。しかし、崇峻天皇は力の弱まった天皇家を復活させようとして蘇我氏を憎んでいたのです。
そのため、当時蘇我氏の中心であった蘇我馬子は、日本に渡来してきた東漢氏の駒に、いうことを聞けば東漢氏を大和朝廷で重く用いようと誘いをかけます。すなわち、崇峻天皇を暗殺するようにそそのかし、殺害を命じたのです。蘇我馬子にしたがった東漢駒は、宮廷行事に参加した崇峻天皇を待ち伏せ、殺害してしまいます。その結果、日本の歴史上、初めてで唯一の天皇(大王)殺し事件になったのです。
暗殺された崇峻天皇の歴史の扱い
歴史的にもこのような例は現在までありません。蘇我馬子はすぐに犯人の東漢駒を捕らえて、約束を守らず首をはね、一族も皆殺しにしてしまいました。一方、崇峻天皇は、通常天皇が死去した場合におこなわれる殯(もがり)もおこなわず、その日のうちに葬ったと日本書紀には記載されています。そのため、当初は崇峻天皇の御陵地(お墓)はありませんでした。
のちに、崇峻天皇の御陵(みささぎ)は桜井市の倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されています。
この事件がなぜ起こったのかを見ていくことにしましょう。
6世紀の大和朝廷の大王(天皇)は跡継ぎがいなくなり、豪族が力を持った
日本書紀によりますと、5世紀後半から6世紀初期まで大和朝廷の大王(のちの天皇)であった大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと:別名大長谷若建命)(雄略天皇のこと)が亡くなると跡継ぎがおらず、大和の豪族たちは大王家の血を引く大王候補をさがすことになります。その後、幼い大王の血筋の子供を大王に据えますが、その跡を継ぐ後継者がいなくなってしまいました。その過程で大王家の力はなくなり、大和朝廷は大和の豪族の連合体のような形になってしまったのです。
ついに大王家の断絶の事態に
しかし、大和朝廷はその頃には、西は中国四国地方、東は関東まで支配エリアを広げており、大王の権威がなければ、国を維持することが難しい状態だったのです。そのため、大王家が断絶するという事態は、国を維持するためには避けなければならないことでした。
そのため、大和の豪族たちは大王家の血筋を求めて国内全域に探査をするようになりました。
応神天皇の5世の孫継体天皇を擁立
そのような状況のなかで、神武天皇の時代からの大臣であった大伴金村(おおとものかねむら)が、越後(現在の新潟県)で応神天皇の5世の孫になる男大迹王(おほどのおおきみ)を見つけ、紆余曲折はあったものの、大王として即位させました。これが、継体天皇です。
しかし、実際に血が繋がっていたかは不明であり、疑問とする学者も多いといえます。大和朝廷を滅ぼしたと主張する学者もいるのです。その背景には、大伴氏が見つけてきたものの継体天皇が即位するまで時間がかかり、実際に大和に入る前に即位式がおこなわれています。
そのため、今の天皇家は一旦6世紀頭には途絶えたという説もあるのです。しかし、日本書紀などは、天皇家の正統性が揺るがないように後から応神天皇の5世の孫としていると言われています。現在の皇室典範では天皇に即位できるのは直系の血筋とされており、その点から見ても断絶はしていると言わざるを得ないでしょう。
継体天皇と仁賢天皇の娘の婚姻による正統性の持続
継体天皇の正統性を確保するために、大伴氏などの大和豪族たちは皇后として仁賢天皇の皇女にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を立て、大王家の血筋を補おうとしています。そのため、断絶はしているものの血が繋がっていないとも言えないのです。学者の一部には手白香天皇だったのではないかという説もあります。ただ、日本書紀では手白香皇女が即位したとは記載されていません。
継体天皇の即位によって大和豪族が力を持つ結果に
いずれにしても、大和朝廷では広い領土の統治を維持していくために、新たに継体天皇という大王を立てましたが、実際には宮廷の運営は大和の豪族たちによって運営されました。そのため、大和の豪族たちの力はさらに強まっていき、それ以降の欽明天皇、用明天皇の時代にも続いていきます。しかし、大和の豪族の間では大王に力がないため、権力争いが生じてくる結果になったのです。