幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

明治の世を切り開いた不世出の政治家「大久保利通」の生涯をわかりやすく解説

幕末の志士たちの中で、明治政府樹立に功績のあった三人は維新三傑とよばれ別格扱いされました。維新三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の三人のこと。薩摩藩を代表し江戸開城を成し遂げた西郷や長州藩を代表し薩長同盟を結んだ木戸孝允に比べると大久保の存在感は小さく見えるかもしれません。しかし、明治政府を語るうえで大久保利通は不可欠な存在でした。今回は大久保利通についてわかりやすく解説します。

薩摩藩士としての大久保利通

image by PIXTA / 14412483

大久保利通は前半生を薩摩藩士として、後半生を明治政府の重鎮として生きました。薩摩藩士時代の大久保利通は優秀な頭脳で出世し、島津久光の側近となります。やがて、久光の信用を得た大久保は薩摩藩の政策決定に影響を及ぼすだけの力を持つようになりました。薩摩藩士としての大久保についてまとめます。

大久保利通の生い立ち

大久保利通は1830年に鹿児島市に生まれました。父は薩摩藩の下級藩士だった大久保利世です。幼いころに加治屋町に移住。近所の子供たちと郷中で学びました。

郷中は「ごじゅう」と読みます。郷中とは薩摩藩で行われていた武士階級の教育法のことです。地域の青少年が互いに教えあう独特の教育法で、地域の年長者が自分よりも幼い子供たちの面倒を見る仕組みでした。幼い子供たちは先輩の家に行き本読みを習います。地域の青少年は互いに顔見知りであり、深いかかわりを持ち続けました。

加治屋町の郷中には大久保のほかに西郷隆盛、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛ら錚々たるメンバーが名を連ねています。大久保は武術は得意ではなかったものの学問では図抜けた存在でした。大久保は郷中の仲間とともに藩校の造士館で学びつつ成長します。

出仕、謹慎、復帰

大久保は1846年に藩の記録書係として出仕。順調に役人生活がスタートしたかに見えました。しかし、大久保利通と彼の父である利世は思わぬトラブルに巻き込まれます。それが、お由良騒動でした。

お由良騒動は薩摩藩の跡継ぎをめぐる争いで、薩摩藩主島津斉興が跡継ぎと決まっていた斉彬を排除して側室お由良の方の子である久光を跡継ぎにしようとして起きた事件。このお由良騒動により世継ぎの斉彬や彼の支持者とみられる人々が弾圧されました。

大久保の父である利世も斉彬派とみなされて役職を罷免。喜界島に遠島とされました。大久保自身も役職を解かれ謹慎処分となります。この結果、大久保家は収入の途を絶たれ経済的に困窮しました。その後、斉興が引退して斉彬が藩主の座に就くことで大久保は藩役人に復職します。

島津久光の側近として出世

1857年、西郷隆盛とともに徒目付となり頭角を現し始めます。島津斉彬が1858年に急死すると、西郷隆盛は失脚。かわって、大久保が若手藩士の集まりだった精忠組の中心人物となっていきます。

斉彬の死後、藩政の実権を握ったのが藩主の父である島津久光でした。大久保は出世の糸口として久光に近づく方法を考えたといいます。良く知られているエピソードは二つ。

一つは囲碁。鹿児島城下のお寺の住職が久光の碁の相手だと知った大久保は、その住職としばしば碁を打ちました。碁の最中、大久保は住職に自分の考えや同志たちの考えを話し、自然と久光の耳に入るよう計らったといいます。

もう一つは、本を貸すこと。久光は無類の読書好きとして知られていました。ある時、久光が読みたがっている本があることを知った大久保はその本を手に入れ、久光に貸し出します。その際、本の中に自分の考えや同志の考えを書いたメモを栞のように挟んだとのこと。下級藩士にすぎない自分や同志の名前を久光に覚えてもらうためのアピールだったのでしょう。

こうして、久光の面識を得た大久保は久光側近として出世することになりました。

岩倉具視との共闘

薩摩藩は当初、公武合体の立場をとっていました。島津久光が幕府と朝廷が協力して国難に立ち向かうべきだと考えていたからです。しかし、幕府や諸藩の足並みがそろわず公武合体運動は挫折してしまいました。久光は公武合体路線から倒幕路線へとかじを切り始めます。当然、側近である大久保も久光の意向に沿って活動していたことでしょう。

このころ、薩摩藩は長州藩と薩長同盟を組んで幕府に対抗。朝廷を動かして薩長に有利な状況を作ろうとしていました。朝廷を動かすため、大久保が目を付けた人物が公家の岩倉具視です。

政争に敗れ、京都郊外に身を潜めて岩倉のもとを大久保が訪ねました。薩摩藩の後ろ盾を得た岩倉は朝廷に工作し討幕の密勅を出させることに成功。密勅自体は動きを察知した徳川慶喜が先手を打って大政奉還を行ったため無効になりますが、大久保と岩倉の共闘はその後も続きます。

朝廷に復帰した岩倉は王政復古の大号令を出させ、慶喜を排除した新政府の樹立を宣言。大久保は参与となり薩摩藩代表の一員として新政府に入りました。その夜に行われた小御所会議では岩倉や大久保の主導の下、慶喜の領地没収と官職辞任の要求を決定させます。

明治政府指導者としての大久保利通

image by PIXTA / 47531026

戊辰戦争に勝利した明治新政府は、欧米列強に対抗するため新しい国づくりを進めていきます。大久保は国内政治の司令塔である内務卿として辣腕を振るいました。その一方、欧米諸国を1年近くかけて訪問する岩倉使節団に同行。今後の日本の行く末を探りました。明治政府の屋台骨をくみ上げた大久保の行動に注目しましょう。

次のページを読む
1 2 3
Share: