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5分でわかる三条実美の生涯!功労者なのに影が薄いのはなぜ?わかりやすく解説

明治維新の立役者といえば、西郷隆盛や岩倉具視、大久保利通といった名前を思い浮かべる人が多いと思います。もちろん他にも、日本の夜明けを支えた人は大勢いますが、では三条実美という人については?はて、そんな人いたっけ?と一瞬考えてしまう……。そんな声が上がることもあるようです。今回の記事では、そんな「三条実美」に注目。幕末の日本を支えた三条実美の生涯を通して、激動の時代を改めて振り返ってみたいと思います。

三条実美の生涯とは・生まれはどこ?どんな人物?

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幕末をテーマにした小説やテレビドラマというと、西郷隆盛や勝海舟、坂本龍馬といった志士を主人公にしたものが人気です。いろいろ掘り返してみても、三条実美をフィーチャーした小説やドラマはちょっと見当たらないような気がします。でもこの人、実はエリート中のエリート。でも、幕末から明治という目まぐるしい時代の中では悲惨な目にあうことも多く、気苦労が多かったと伝わっています。どんな人物だったのか、まずは三条実美の生涯をたどってみたいと思います

名門・三条家の当主にして公家界の超エリート

三条実美(さんじょうさねとみ)は1837年(天保8年)、公家の名門・三条家の三男として生まれます。父親は、江戸幕府との交渉役なども務めた三条 実万(さんじょうさねつむ)。

実美は三男ということで、家督を継ぐ予定はありませんでしたが、幼いころから学問に長けた優秀な少年だったと伝わっています。

しかし兄が早くに世を去り、実美の元服より前に父が亡くなったため、17歳にして三条家の当主に。18歳で正五位下に、19歳で右近衛権少将に任命されるなど、頭脳を活かし出世街道をひた走ります。

このままどんどん出世して公家界のトップに……といけばよかったのですが、時代は大きく変わろうとしていました。

実美が家督を継ぐほんの少し前、1853年(嘉永6年)に、黒船がやってきて日本に開国をせまります。京都とて高みの見物というわけにはいきません。実美もまた、幕末の渦の中に飲み込まれていくことになります。

幕末の動乱から尊王攘夷派の中心人物へ

三条実美は子供のころの教育係であった富田織部らの影響を強く受けていました。また、儒学者の池内大学にも支持。多くを学んでいます。

父・実万も尊王攘夷派であったことから、尊王攘夷派・勤王派の志士たちとも交流があったようです。

尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び国家を存在させ(尊王)、外敵・侵略者を追い払う(攘夷)という2つの思想を組み合わせた言葉。古代中国・春秋戦国時代の言葉を流用したものといわれています。

アメリカの脅威が近づく中、日本はどうあるべきか。身分の高い低い関係なく、多くの日本人が熱い思いをたぎらせていた時代、実美も積極的に政治に参加していきます。

尊王攘夷派の公家として、長州藩の藩士たちと交流。岩倉具視ら幕府と連携して事を進めようとする(公武合体推進派など)を失脚させるなど精力的に活動します。

しかし、その岩倉具視たちが中心となった八月十八日の政変などの影響で、実美は京都を追われ、九州の太宰府に身を隠すなど、苦い思いをした時期もありました。

苦労が報われ明治政府では副総裁に就任

幕末から明治へ、時代の移り変わりとともに、三条実美は再び、表舞台に返り咲きます。

徳川が大政奉還し、江戸幕府が終わりを告げた後、実美の幽閉生活も終わりとなり、晴れて政治の中央へ復帰。1868年(明治元年)、一時は対立することもあった岩倉具視とともに、明治新政府の副総裁に就任しました。

翌年には右大臣に、その後、太政大臣にも任命されています。

京都から江戸(東京)への遷都を推し進めたり、政府内部の調整役を務めたりと、忙しく働く実美。しかし政府はなかなか一つにまとまらず、気苦労が絶えなかったといわれています。

1891年(明治24年)、インフルエンザにかかり、そのまま帰らぬ人となってしまった三条実篤。激動の時代を生きたエリート貴族は、ひたすら国のために働き、55歳の生涯を終えます。

岩倉具視より影が薄い?三条実美の政治手腕とは

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貴族としての身分は申し分なく、位は岩倉具視よりずっと高い三条実美。でも、明治維新の功績を見てみても、三条実美の名前を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。政治的な意識も高く、長きにわたって明治政府を支え続けてきた立役者であるはずなのに今一つ影が薄いのはなぜなのでしょう。今度は、三条実美がかかわった出来事をもう少し詳しく掘り下げながら、彼の政治手腕について考えてみたいと思います。

尊王攘夷派の急先鋒として公武合体派と対立

三条実美は父や家臣たちの影響もあって、子供のころから強く「尊王攘夷」という言葉を心に刻んでいました。

政治の世界に入ってすぐのころは、幕府と手を取り合って異国に立ち向かうべきという「公武合体派」と同じ意見を持っていたようですが、煮え切らない幕府に嫌気がさし、長州藩の志士たちと通じるようになっていきます。

徳川将軍家茂に攘夷を迫ったり、孝明天皇による攘夷目的の大和行幸を画策したりと、同じく攘夷派の公家・綾小路公知とともに尊王攘夷派の公家として大活躍。朝廷と幕府を結び付けようと動く公武合体派の岩倉具視や久我建通を都から追い出すなど激しい戦法に出ることもあり、攘夷派の足固めに余念がありません。

幕府は攘夷派公家の急先鋒であった実美との交渉を望みましたが、実美は取り合いませんでした。そんな中、開国に心が動いているのでは……と噂されていた姉小路公知が、京都御所を出て帰宅する途中で何者かに暗殺されるという事件が起きてしまいます。

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