幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「八月十八日の政変」池田屋事件・禁門の変との関連もわかりやすく解説

「八月十八日の政変」と言われても何の出来事だったかピンとこない、という方も多いかもしれません。幕末に起きた重要な出来事なのですが、「禁門の変」とごっちゃになってしまう、誰と誰が対立していたかわからなくなる、等々、目まぐるしく変化する幕末の出来事は名前を覚えるだけでも一苦労です。そこで今回の記事では改めて「八月十八日の政変」に着目。何が目的の政変だったのか、なぜ起きたのか、「八月十八日の政変」が起きるまでの時代背景に重きを置いて詳しく解説します。

なぜ起きた?「八月十八日の政変」の原因とは何か

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「八月十八日の政変」とは江戸時代末期、薩摩藩・会津藩が長州藩と尊王攘夷派の一部の公家たちを京都から追い出したクーデター。物事を過激に急進的に推し進めようとする長州藩らを、政治の中心から排除することが目的だったのですが、いったいなぜそんなことになったのでしょうか。まずは当時の時代背景と各藩の動きを見ていくことにいたします。

揺れる日本!公武合体と討幕への動き

1853年(嘉永6年)、浦賀沖に、それまで見たこともないような巨大な船が姿を現します。マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊。突然やってきた異国船は国書を携え、日本と交易をするべく開国をせまります。

開国するのか?それとも拒否か?戦争か?江戸幕府は対応におおわらわ。意見が割れ、方向性が定まりません。

そんな幕府の様子に、諸藩の藩士たちはいらだったり失望したり。もう、幕府に日本をまとめる力はないのかもしれない。そんな空気が漂います。

そもそも幕府とは、朝廷から政務を任された外部機関のようなもの。その幕府が機能していないのなら……各藩ごとに様々な意見が飛び交いました。

・いやいや徳川幕府は全然イケてますけど?
・権力を朝廷にお返しして幕府を閉じれば?
・今こそ朝廷と幕府が協力し合うべきでは?
幕府はいらん!ぶっ潰してしまえ!

などなど。日本の明日を憂いで各藩とも議論が激化し、朝廷と幕府の協力体制(公武合体派)と、幕府ぶっ潰せ(討幕派)と唱える藩が衝突することもありました。

鎖国か開国か?「尊王攘夷」とは何?

当時、異国を追い払う思想・考え方のことを「攘夷(じょうい)」と呼んでいました。「攘」は追い払うという意味をもつ字で、「夷」とは異民族を表す古い言葉で、この二つを組み合わせて、異国など追い払ってしまえばいい!という強硬な思想を表しています。

鎖国継続か、開国か。攘夷か友好か。黒船来航を前に、日本はまず、この二択について考えなければなりません。

そんな中、江戸幕府大老・井伊直弼が天皇の許可なくアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。

なんと勝手なことを!幕府は天皇をバカにしているのか?徳川幕府に反感を抱いていた藩だけでなく、幕府寄りだった藩の中にも、幕府に対して不信感を抱くようになってしまうのです。

天皇を敬い尊ぶという思想を「尊王(そんのう)」といいます。本来は別々の単語ですが、時代の流れから、「天皇を尊び異国を打ち払う」という思想を「尊王攘夷(尊攘)」と呼んでいました。

幕末の日本、価値観が大きく変わっていく中で、「尊王攘夷・倒幕」という考え方が浮き彫りになっていったのです。

長州、薩摩、会津、それぞれの思いとは

幕末、政治の中心で活躍した長州藩、薩摩藩、会津藩。それぞれ、どういう関係にあったのでしょうか。

まず長州藩。藩内では開国を唱える有識者もいましたが、吉田松陰や、松下村塾で松陰から指導を受けた久坂玄瑞や高杉晋作らは尊王攘夷を強く主張。イギリスやフランスなど外国の船舶を関門海峡で攻撃するなど(下関戦争)、過激ともとれる行動に走ります。

薩摩藩は、カリスマ藩主・島津斉彬が公武合体を唱え、今こそ幕府と朝廷が連携して事に当たるべきだと主張。斉彬は自分の娘(養女)の篤姫を徳川家に嫁がせるなど、幕府に立ち位置にいました。後に西郷隆盛や大久保利通など下級武士が斉彬の意思を継いで公武合体と尊王攘夷を推し進めます。

会津藩は幕末期、幕府から「京都守護職」という役職に任命され、福島からはるばる京都へ。尊王攘夷運動で荒れる京都の警備を任され……というか、押し付けられます。危険な任務の上、かかる費用はすべて自腹なので、貧乏くじ以外のなにものでもありませんが、藩主・松平容保はその責任感から職務を全う。幕府側(佐幕派)であり公武合体に賛同しながら、京都の治安維持にあたっていました。

京都に武力を送り込み力づくで尊王攘夷を推し進めようとした長州藩と、幕府に近い立場であり長州藩をよく思っていなかった薩摩藩、そして京都守護職の任につき長州藩のような輩から都を守っていた会津藩。「八月十八日の政変」直前の1863年、3つの藩は、長州藩と対峙するような形で結びついていたのです。

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