日本の歴史

【日本史】激動する歴史の中、様々な活躍をした女性たち6選

日本史に出てくるのは男性ばっかり?たしかに戦国武将などにはそんなイメージもあるかもしれませんね。しかしある時は男性を影から支え、ある時は表舞台で活躍した女性はたくさんいるんです。例えば女性ならではの感性を活かした文学で有名となった女性。そして政治において活躍した女性。今回はそれぞれの時代をそれぞれの生き方で強く生き抜いた彼女たちについて紹介していこうと思います。

いつの世も、女性は活躍しています

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女性は家で家事をして、夫の帰りを待つ……。一昔前は女性に対してそんなイメージもあった日本。しかし現在では女性の社会進出が当たり前になりましたね。移り変わる長い歴史。戦乱の世もあり、大変な時代を生きた女性も多かったことでしょう。そんな中でも女性ならでは、また男性顔負けの活躍をした女性たちは魅力的に映りますね。

1.謎多き女王!「親魏倭王」卑弥呼

最初に紹介するのは、『魏志倭人伝』に記述が見られる女王・卑弥呼。弥生時代~古墳時代に邪馬台国の女王として君臨しました。中国に使者を送り、「親魏倭王」の金印を授かります。教科書でも最初の方に出てくるので、印象に残っているという方も多いのではないでしょうか。

日本の歴史書には卑弥呼についての記述がなく、詳細な活躍は明らかになっていません。『魏志倭人伝』によれば、その頃倭国(当時の日本)では内乱が起こり、卑弥呼を女王とすることで治まったそう。また卑弥呼は鬼道(きどう)を使って、シャーマン的存在として邪馬台国を治めていたようです。

生没年も分からず謎だらけの人物、卑弥呼。邪馬台国は現在でもどこに存在したのかが明らかにされておらず、現在でも様々な説が飛び交っている状態です。議論の余地があるからこそ、卑弥呼や邪馬台国がより魅力的に思えるのかもしれませんね。

2.世界で初めての女流作家!紫式部

平安時代中期に『源氏物語』という長編小説を書き上げた紫式部。光源氏を主人公として彼の恋愛や活躍を中心に展開する『源氏物語』は、多くの人々を魅了してきました。約1000年前に書かれたのに今読んでも面白い、というのはすごいことですよね。

実は紫式部が『源氏物語』を書き始める前、彼女には悲しい出来事がありました。それは結婚してわずか3年しか経っていない夫との死別。この悲しみを振り払うため、彼女は物語の創作を始めることになったのです。

『源氏物語』は口コミによって評判となり、紫式部は当時の権力者である藤原道長によって、彼の娘・中宮彰子の家庭教師として任命されます。家庭教師を任せられるだけあって、紫式部はかなりの才女だったようです。こうして宮中で働くことになった紫式部は、藤原道長の支援もあり、家庭教師としての任を果たしながら『源氏物語』を完成させたのでした。

3.今読んでも共感できる随筆の作者!清少納言

前述の紫式部と対になる存在としてしばしばイメージされるのが、清少納言。紫式部と同じく、平安時代中期に活躍した女流作家です。教科書でもお馴染み、『枕草子』の作者ですね。

『源氏物語』は小説というフィクションでしたが、『枕草子』は随筆でノンフィクション。冒頭にある「春はあけぼの」からの一節はあまりにも有名です。清少納言の目を通して描写される自然や人間は、今の感覚にも通ずるものがあり新鮮に読むことができます。清少納言の観察眼がとても優れていたことがうかがえますね。

時代は前後するものの、紫式部が中宮彰子に仕えたのに対し、その少し前に清少納言は中宮定子に女房として仕えていました。紫式部は自身の『紫式部日記』の中で清少納言について名指しで批判しており、二人はライバル関係だったとの見方をされることもあります。才能のある女性同士だったからこそ、お互いを意識していたのかもしれません。

4.鎌倉幕府の実質的将軍となった!北条政子

鎌倉幕府征夷大将軍・源頼朝の奥さん、北条政子。頼朝と政子の出会いはなかなか変わったものです。戦に負けて流人となっていた頼朝の監視役が、政子の父親・北条時政でした。父親の目を盗み、二人は恋仲となります。父親も最初は反対したようですが、後に認めてくれたそう。

壇ノ浦の戦いで平家に打ち勝ち、1192年に征夷大将軍として任命された頼朝。しかし1199年、頼朝は落馬が原因で亡くなってしまいます。長男・頼家が後を継ぎますが、北条氏との関係が悪化。出家させられ将軍の職を追われ、やがて暗殺されてしまいました。頼家の後に将軍となった実朝も暗殺されてしまいます。政子は子供を全員失いました。

その後、北條氏は九条家からわずか2歳であった三寅(藤原頼経)を迎えます。こうして政子は幼い三寅の後見人となり、鎌倉幕府の将軍職を代行する存在となりました。「尼将軍」と呼ばれ、幕府に大きな影響を与えていたようです。

5.女性だけど城主!井伊直虎

2017年に大河ドラマの主人公にもなった、戦国時代を女城主として生きた女性、それが井伊直虎です。直虎という存在についての史料は少ないのですが、『井伊家伝記』における次郎法師と同じ人物だとされています。

次郎法師こと直虎は、1535年頃に第22代当主・直盛の娘として井伊家に誕生。直盛には家督を継ぐ男子がいなかったため、当初は直盛の従兄弟である直親を直虎の許婚として婿養子に取ろうとしていました。しかし直親の父親が今川義元への謀反の疑いで自害させられてしまいます。直親は生きていたのですが、亡くなったと思った直虎は出家。次郎法師を名乗りました。この間に直親は逃亡先の信濃で正室を迎えています。

その後、父・直盛が戦死。直親が後を継ぐこととなりますが、彼も謀殺されてしまいます。家督を継ぐことができるような年齢の男子がいなくなってしまった井伊家。出家していた直虎が呼び戻され女当主となりました。彼女は生涯を独身で過ごします。こうして井伊家は存続。直虎が当主となった頃まだ幼かった直政は、後に徳川家康に仕えて功臣となりました。

6.「大奥」を作った女性!春日局

ドラマや漫画などで、現在でもお馴染みの大奥。将軍の正室から子供までが暮らす場所でした。徳川家康の頃から「大奥」という場所自体はありましたが、その大奥の制度を整えた人物が、春日局です。

春日局は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘として生まれます。父親は本能寺の変で織田信長を討った後、秀吉によって処刑されてしまいました。恵まれた生活から一転、裏切り者の娘となった春日局。その後稲葉正成と結婚しますが、将軍家の乳母となるため離婚します。

そして竹千代(後の第3代将軍家光)の乳母として任命された春日局。竹千代にとても愛情を注いだそうで、好き嫌いの多かった彼の食事に工夫をして、偏食を克服させたというエピソードも残っています。家光が将軍となった後は「将軍様御局」として老中をも凌ぐ権力を手に入れ、家光のために側室を迎えるなど熱心に働きました。「春日局」という名前は朝廷から下賜されたもので、後に従二位の位も送られています。この位は、北条政子と同じという高い位なんですよ。

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