幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「禁門の変」長州藩失地回復のための戦いをわかりやすく解説

3-2六人の賢人会議

クーデターが完結すると人々が去り、京には頼れる人材が松平容保しかおらず急に静かになりました。朝廷は焦り、島津久光や一橋慶喜に京に戻るよう命令します。慶喜は、軍艦蟠龍丸にのり、艦長の勝林太郎(勝海舟)と共に京へ向かいました。この船の中で、二人は今後の日本の在り方について色々な話をしたようです。京ではこの少し前から、新選組が京都守護職の監視下に入り、活動を始めていました。

1864年4月には、京にいる3人に加え、松平春嶽や伊達宗城、山内容堂らを呼び、6人で若州会議(後見邸会議)により、国策の方針を決めるようにしたのですしかし、物事は上手くいきません。水野忠邦ら幕府の7人の老中や、慶喜を嫌う大奥が邪魔をするのです。慶喜の優柔不断な性格から、六人の賢人会議は解散となりました。しかも、慶喜は将軍後見人の職を放り出し、朝廷を守る総督「禁裏御守衛総督」になると言い出したのです。

3-3きっかけは池田屋事件だった

六人の賢人会議の解散により、薩摩も去り京はまた静かになりました。でもこれは表向きで、裏では会津だけの手薄になった警備を掻い潜り、政権奪還を目論む攘夷志士たちが密かに集まっていたのです。

でも、会津藩だけの警備では不安と、松平容保預かりとなった「新選組」も都の警備にあたりました。ここで大事件が起こります。「池田屋事件」です。攘夷志士の古高俊太郎を拷問し「京に戻ってきた攘夷派の浪士が政権奪還を目論み、御所に火をつけ参内する天皇の側近でクーデターの黒幕中川宮を幽閉し、一橋慶喜と松平容保を暗殺する計画がある」と、吐露させたことに端を発します。

新選組は何か起こってはいけないと、徹底的な取り締まりをしたのです。6月5日に攘夷派が、池田屋に集まることを知り襲います。この事件で、京にいる長州藩を中心とした攘夷派の中核、吉田稔麿や宮部鼎蔵ら20人超が討死したのです。桂小五郎もいましたが、たまたま外出しており助かりました。

4.おこっちゃった「禁門の変」

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Yūzan Mori – Library of Congress Prints and Photographs Division. CALL NUMBER: Illus. in H30 [Asian RR]. REPRODUCTION NUMBER: LC-USZC4-8727. http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3g08727, パブリック・ドメイン, リンクによる

池田屋事件を知った長州は、今が会津と薩摩に京を追い出された雪辱を果たす時と立ち上がります。京にいられなくなった、他藩を脱藩した攘夷派たちも激怒し参戦するのです。毛利敬親親子や都落ちをした7人の公家の冤罪を孝明天皇に訴えるため京に向かいます。長州の中心人物の周布正之助や高杉晋作、桂小五郎は猛反対し慎重論を唱えるも、勢いは止まらなかったのです。それでは、7月19日に起った「禁門の変」を見てみましょう。

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