幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「禁門の変」長州藩失地回復のための戦いをわかりやすく解説

「禁門の変(きんもんのへん)」は、長州藩が京で失った地を取り戻すべく、威信を賭けて起こした戦闘です。かつて朝廷の厚い信頼を得ていた長州藩が、薩摩と会津らの策略により、京から追い出された遺恨が要因のひとつ。今回は、長州藩が失地回復のため戦った「禁門の変」をわかりやすく解説したいと思います。

1.禁門の変とは

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「禁門の変」を簡単にいうと、長州藩が京都から追い出され、このままでは体面が保たれないと京都に攻め込んだ事件。というより、都から追い出されるなんて、長州藩にとっては、かなりセンセーショナルな出来事だったんです。それでは、禁門の変のさわりをご紹介しましょう。

1-1禁門の変を簡単に

長州vs会津・薩摩藩の間で起きた戦闘です。元治元(1864)年7月19日午前3時ごろに開始し、11時ごろには決着がついたとか。こんなに短い戦いでしたが、かなりの激戦だったようです。実は、奄美大島に流されていた西郷隆盛とって、軍を率いて戦う初陣だったといわれています。

激戦らしく京都御所周辺は焼け野原になり、約2万8千戸が焼失しました。253の寺社や51の武家屋敷が焼かれ、21日まで火は消えなかったとか。市民は家を失い、其処らの中に死体が転がり悪臭を放っていたようです。

2.長州がなぜ的になった?

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「禁門の変」に至るまでには、長州が天皇や朝廷から嫌われ、窓際に追いやられた経緯があったんです。クーデターにより京から追い出され、決定的になるのですが、それまでにどのような経緯があったかを、幕府と長州、薩摩の状況を見ながら探ってみたいと思います。

2-1攘夷に従ったのは長州のみ

文久3(1863)年に、自暴自棄になっていた一橋慶喜は、攘夷(外敵を打払う)決行を全大名に発令します。でも、実行したのは長州藩だけでした。馬関海峡(関門海峡)を行き交う外国船に、危機感を持っていたからです。仲たがいをしていた小倉藩は、同じ立場にあるも静観しています。

攘夷決行を受けた長州は、いきなりアメリカやフランスなどの外国船を攻撃したのです。今まで、何の問題もなく往来していた外国船は、戦闘準備をしておらずあっけにとられ慌てて遁走しました。外国に勝利した強い長州と勘違いします。これなら都でも勝てると踏み、攘夷政策を朝廷に強行しました。孝明天皇は攘夷論者で、外国が大嫌いな人だったんです。

2-2偽の詔勅出回る

攘夷論者の天皇を利用し、長州は都でやりたい放題となります。公家を懐柔し天皇の詔勅と、さまざまな命令を出すのです。でも、天皇自身はこんな詔勅は知らないといった有様。これには、孝明天皇も激怒します。もともと、「攘夷、攘夷」と強要する長州は、朝廷内の嫌われ者となっており、天皇からも鼻つまみになったのです。そこに、上手く取り入ったのが会津でした。

そんな時に、アメリカの軍艦ワイオミングが、下関沖に現れたのです。先だっての、お返しとばかりに、2隻の長州藩の軍艦を沈没させます。更に、藩内の砲台まで撃破したのです。外国の近代的な武器にかなわず、250人ものアメリカ兵の上陸を許し、長州は敗北します。

 

2-3攘夷に湧く長州

敗戦の翌日高杉晋作は、身分にとらわれない軍隊「奇兵隊」の募集を始めます。近代的な組織造りが目的で、下関の豪商白石正一郎の援助もあり軍備が整うと「奇兵隊」は結成されました。伊藤俊輔(博文)の力士隊を始め、遊撃隊や八幡隊など、長州藩はいくつかの軍隊を作っています。これにより、長州はますます攘夷に傾倒し、京に潜伏していた長州藩士たちも勢いづいたのです。

大久保一蔵(利通)ら薩摩藩が、政権奪還を企てていました。会津藩と結託し、長州を朝廷から追い出す、クーデターを起こそうというもの。所謂これが、「八月十八日の政変」です。

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