- 薩長同盟とは何だったのか
- 明治維新への一里塚になった薩長同盟
- 薩摩藩と長州藩は実は仲が悪かった
- 薩摩と長州の歴史的な繋がり_関ヶ原の戦い
- 長州藩の京都での活動と四ヶ国艦隊の砲撃による変化
- 薩摩藩は島津斉彬以来、開国派だった
- 蛤御門の変で決定的に対立
- なぜ、長州藩は薩長同盟に同意したのか
- 幕府の徳川慶喜主導の長州征伐による長州藩の苦境
- 長州藩の主導権を握った反幕府派と第2次長州征伐
- 坂本龍馬による長州説得
- 薩摩の背景には小松帯刀がいた
- 薩長同盟成立によって歴史の流れは大きく変わる_明治維新へ
- 薩長同盟による効果_幕府の第2次長州征伐の失敗とその後の情勢変化
- 苦境を切り抜けた長州と薩摩の目指すべきもの
- 薩摩と長州は倒幕に向けて走り出した
- 鳥羽伏見の戦い_薩摩・長州連合軍対幕府軍は錦の御幡で勝負あり
- 明治維新は戊辰戦争で完結
- 明治維新後の明治政府における薩摩と長州
- 西南の役後の明治政府は長州閥が牛耳る
- 薩長同盟_小異を捨て大同につく覚悟が時代を動かす
この記事の目次
薩長同盟とは何だったのか
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1867年にそれまで260年以上続いてきた徳川幕府は消滅し、明治政府が成立して明治維新が成功しました。この、幕末の明治維新において大きな役割を果たして、歴史の転換点になったのが、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が提携した薩長同盟です。それまでは、幕府の威信は弱まったといっても、まだまだ幕府の力は強く、幕府に表だって批判する藩はほとんどありませんでした。安政の大獄では、実に100人以上が処分されています。尊皇攘夷派の橋本左内や長州の吉田松陰などが斬首されているのです。
しかし、薩摩藩と長州藩が同盟して幕府に対抗し、第2次長州征伐が失敗してからは、幕府に異を唱える有力大名が出てくるようになります。幕府は、坂道を転げ落ちるように崩れていったのです。この時代の転換ポイントになった薩長同盟についてご説明します。
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明治維新への一里塚になった薩長同盟
ペリーが黒船で来航し、日米和親条約を結んだ1854年以降、1867年までの日本は、混乱の時代を迎えます。最初、幕府に異を唱えたのは、尊皇攘夷派と言われる水戸藩士らを中心とする人たちでした。しかし、井伊直弼が大老になり、日米修好通商条約を勝手に結んだことから攘夷派は井伊大老を非難しますが、逆に怒りを買い、安政の大獄が始まってしまったのです。また、幕府は、攘夷派が天皇のいる京都に集まっており、会津中将松平容保を京都守護職として送り込むとともに、ご存じの新撰組に京都市中の取り締まりに当たらせました。
その結果、多くの勤王の志士たちが亡くなり、長州の会津藩に対する憎しみは、戊辰戦争の最後に会津の鶴ヶ城を官軍が目指したことでもわかります。
しかし、同時に薩摩藩と長州藩の仲も悪くなっており、その手打ちになったのが薩長同盟でした。この薩長同盟によって、幕府と倒幕派との力関係が大きく変化したことが、明治維新を実現させ、日本を近代化に向かわせる転換点、一里塚となったのです。
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薩摩藩と長州藩は実は仲が悪かった
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当時の孝明天皇が外国嫌いだったこともあり、攘夷派は京都に集まるようになっていました。特に吉田松陰の死後、その門弟たちが攘夷派になっていたことから、京都でも長州藩の若い藩士たちがたくさん京都に集まっていたのです。しかし、当時は幕府側についていた島津久光が京都に上洛し、京都守護職の松平容保とともに長州藩士や島津藩士の攘夷派を京都から追い出します。これには、長州が怒って、両藩の関係は悪くなってしまったのです。
薩摩と長州の歴史的な繋がり_関ヶ原の戦い
もともと、長州藩と薩摩藩の関わりは、関ヶ原の合戦に遡ります。関ヶ原の合戦では、薩摩の島津義弘と、長州藩となる毛利家は、西軍の石田三成の側に属していました。そして、毛利家は、当主の毛利輝元は戦いに参加せず、毛利一族の吉川元春は徳川家康と裏で繋がっていたのです。さらに関ヶ原の合戦そのものが、毛利一族の小早川秀秋(実際には豊臣家からの養子)の裏切りから西軍が負けています。島津義弘は、裏切りませんでしたが、最後まで動かず、形勢が徳川家康の東軍に決まった後、中央突破を図って、薩摩まで逃げ帰ったのです。しかし、島津軍で薩摩まで帰り着いたのは、島津義弘のほか、数えるほどで、ほとんどが討ち死にしていました。
そのため、薩摩藩は、その勇敢さに許されましたが、江戸時代を通じて江戸幕府を恨んでおり、同時に裏切った長州に対しても良い感情は持っていなかったのです。もともと、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったとも言えます。
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長州藩の京都での活動と四ヶ国艦隊の砲撃による変化
もともと、長州藩は、一枚岩ではありませんでした。長州藩の藩主である毛利敬親(たかちか)は、ほとんど自分の意見を言わないため、親幕府派と反幕府派が主導権争いをしていたのです。しかし、若い藩士には反幕府派の攘夷論者が多く、その多くが京都に上洛していました。特に、吉田松陰が安政の大獄で斬首された後には、久坂玄瑞などの門弟たちが京都で勤皇攘夷を唱えて活動していたのです。親幕府派の家老たちは、そのような彼らを呼び戻そうと懸命でした。
しかし、攘夷派が実権を握った1863年に、長州藩は、関門海峡を通る外国船に対して砲撃を加えます。ところが、この砲撃に対して、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四ヵ国艦隊が逆に長州に対して、砲撃を加えて、長州はこっぴどい目にあってしまったのです。そのため、親幕府派が実権を握り返す事態になり、攘夷派も攘夷は無理だと悟ります。しかし、それでも吉田松陰を斬首した幕府を許すことはなく、今度は倒幕姿勢に変化していくのです。
薩摩藩は島津斉彬以来、開国派だった
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薩摩藩は、ペリー来航時の藩主は島津斉彬でしたが、彼は、欧米諸国の進んだ科学技術や商品を取り入れて日本を守ろうと考えており、攘夷という考え方はしませんでした。また、幕府に参画することを目指してもいたのです。斉彬が死んで、弟の島津久光が藩の実権を握ってからも、基本的には幕府に恭順姿勢を見せ、攘夷には反対でした。
しかし、若い藩士の中には、攘夷を唱えて京都に上る藩士もけっこういたのです。島津久光はその藩士たちを説得しましたが、言うことを聞かなかったために、その藩士たちを殺害してしまいます。これが寺田屋事件です。
その島津久光が江戸から薩摩に帰る途中、今の神奈川県の生麦で、行列を横切ったイギリス人を刀で殺傷してしまいます。そのため、イギリスはその賠償を求めて、薩摩にイギリス船を派遣して砲撃を加えて、薩摩の人々を震え上がらせました。この薩英戦争によって、薩摩藩は攘夷が無理なことを悟り、イギリスと通じることになるのです。
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