平安時代日本の歴史

摂関政治の全盛時代を築き上げた「藤原道長」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。平安時代中期にこの歌を詠んだ人物こそ、藤原道長です。道長は摂政・関白の職を独占していた藤原北家の一員として生まれました。とはいえ、道長は父兼家の4男であり、家督を相続できる可能性は低かった人物です。その道長がいかにして藤原氏のトップに立ち、摂関政治の最盛期を築いたのでしょうか。今回は、藤原道長の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

藤原北家による摂関政治

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奈良時代、藤原不比等の四人の子は南家・北家・式家・京家の4家がありました。平安時代に急速に力をつけたのが藤原北家です。藤原北家は他氏を排斥しつつ、摂政関白の職を独占し、摂関政治を行いました。他氏排斥が終わると、藤原氏内部での争いとなります。もっとも有名な同族間の争いは、道長の父である兼家と叔父の兼通との兄弟争いでした。藤原氏が他氏を排斥し、同族間でもしのぎを削っていたことについてまとめます。

藤原北家による他氏排斥

藤原北家が隆盛するきっかけは、平安時代初期におきた薬子の変です。平城上皇の側近だった式家の藤原仲成と藤原薬子の兄弟を、嵯峨天皇と側近で北家出身の藤原冬嗣が排除したことが北家台頭のきっかけとなりました。

北家の基盤を固めたのが冬嗣の子である藤原良房でした。良房は承和の変で皇太子恒貞親王と側近の伴健岑、橘逸勢を排除することに成功します。さらに、866年の応天門の変では大納言伴善男らを失脚させました。応天門の変後、良房は臣下として初めて摂政に任命されます。

良房の養子となった基経は、阿衡の紛議で宇多天皇に詔勅を撤回させ、関白の政治的地位を確立しました。

醍醐天皇や村上天皇の時代には摂政関白が置かれませんでしたが、969年の安和の変以降、摂政関白は常時設置されるようになり、その地位は藤原北家によって独占されます。

摂関政治とは

摂関政治とは、藤原北家が天皇の外戚として摂政や関白の地位を独占し、天皇にかわって政治の実権を掌握した政治のことです。外戚とは、妻の一族のこと。藤原北家は、天皇家に娘を嫁がせ、その子の後見役となることで政治の実権を握ったのです。

平安時代、貴族社会では母方の実家が子供を育てるのが当たり前でした。当時の常識から考えても、天皇の妻の一族で、天皇の祖父となる藤原家の人物が、天皇代理ともいえる摂政や関白の地位に就くのは決して不自然なことではありません。

摂政や関白は朝廷の人事権を独占し、中・下級貴族を藤原氏に従わせていました。摂関政治では新たな政治改革を行うことは少なく、先例や儀式が重視されます。地方政治は地方行政のトップである国司にほぼ一任されました。

藤原兼通・兼家の兄弟争い

10世紀中ごろ、他氏を完全に排除した藤原北家では、北家の人間同士で地位を争うようになっていました。北家の内部では藤原師輔の子である藤原兼通と藤原兼家の兄弟が序列を争っていました

この時、朝廷でトップに立っていたのは師輔の子で長兄である伊尹です。伊尹は二人の弟のうち、兼家をひいきにしました。そのため、弟の兼家が兄の兼通よりも早く昇進します。

伊尹の死後、兼通は円融天皇に対し、天皇の母親の遺言状を見せました。遺言状には、摂政関白の位は強大の順序に従って補任するべきだ」と書かれていたといいます。そのため、円融天皇は次の兼通を次の摂政・関白としました。

977年、兼通が病で症状が悪化した時、兼家の牛車が兼通邸に近づいてきます。仲が悪くても最後は見舞いに来るかと、兼通は部屋を掃除させますが、兼家が向かった先は宮中。そのため、兼通邸を素通りしました。これに激怒した兼通は最後の力を振り絞って参内。兼家を降格させ、摂関も藤原頼忠にする最後の人事を発令しました。

道長の登場と権力の掌握

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熾烈な兄弟争いで一時は降格された兼家ですが、やがて復権しました。966年、道長は兼家の4男として生を受けます。出生順が遅かったので、道長は後継者争いで不利でしたが、兄たちが次々と死ぬことで、思わぬチャンスが巡ってきました。最後まで道長と摂関の座をめぐって争ったのが藤原伊周です。道長と伊周は自分の娘を一条天皇の妻とし、互いに影響力を競いました。その後、権力を掌握した道長は三条天皇と対立。天皇を引退に追い込みます。

藤原道長の生い立ちと出世

藤原道長は966年、藤原兼家の子として生まれました。兼家の正室である時姫の子でしたが、母を同じくする道隆、道兼という二人の兄がいたため、家督を相続する可能性は高くありません。それでも、有力貴族の子であったため、若くして貴族に叙せられました。

986年、花山天皇が寵愛していた女御の死をきっかけに、出家を考えると兼家は自分の孫を即位させるため、花山天皇を出家させる陰謀を企てます。この時、道長は花山天皇の宮中からの失踪を関白である藤原頼忠に知らせる役割を振られました。

花山天皇の退位により、兼家の孫である一条天皇が即位し、兼家は目論見通り摂政に任じられます。道長は988年には権中納言に昇進しました。順調に昇進していきましたが、上には二人兄が健在だったため、家督相続の可能性は低いままです。

道長と伊周の権力闘争

990年には上級貴族である正三位に叙せられます。同年7月、兼家が死去すると、関白の地位は長男である道隆に引き継がれました。同年10月、道隆の娘である定子が中宮となります。道隆が最高権力者となっても、道長は出世をつづけました。

995年、道隆は飲酒が原因で病に倒れました。道隆は自分の子である伊周に関白職を受け継がせたかったのですが、一条天皇はそれを許しません。

道隆の死後、関白の位は道隆の弟の道兼が継ぎます。しかし、道兼は就任後数日で病気によって死去しました。

藤原氏のトップは、道長と伊周の二人によって争われます。一条天皇は寵愛する定子の兄である伊周を藤原氏のトップである氏長者にしようと考えますが、一条天皇の母で、道長の姉である詮子は道長を強く推薦しました。

最終的に、一条天皇は道長を氏長者に任命します。この争いに敗れた伊周は996年に花山法皇に矢をいかける事件を起こし、宮中を追われました

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