- 観音寺城の歴史をざっとご紹介
- 交通の要地だった観音寺城の立地について
- 南近江に勢力を張った名族【六角氏】
- 足利将軍の征伐を受ける六角氏
- 幕府の権力争いに介入するも衰退の道をたどる
- 信長に抵抗して没落
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この記事の目次
観音寺城の歴史をざっとご紹介
観音寺城(かんのんじじょう)は、かつて南近江に君臨した戦国大名六角氏の居城だったのですが、六角氏の衰退と共に観音寺城もその役目を終えました。城として存在していた期間はわずか100年ほどでしたが、日本の歴史に大きな足跡を残したという意味では、非常に注目されるべき城郭ではないでしょうか。まずは観音寺城の歴史をご紹介していきたいと思います。
交通の要地だった観音寺城の立地について
滋賀県は非常に城郭の多い都道府県ですが、やはり京都へ通じる主要な街道が通り、琵琶湖という水運の要が存在していたことに大きな理由がありますね。
豊臣秀吉の甥だった秀次が居城としていた八幡山山頂から東を見渡すと、ちょうど一直線上に【八幡山城→安土城→観音寺城】と並んでいるのがわかります。当時の為政者たちが城を築くのに、最適な立地だったということがよく感じられる場所です。
観音寺城の場合、東海・北陸から京都に通じる東山道を控え、さらに伊勢方面へ通じる八風街道、そして南の方角へ目を向ければ六角氏が頼りにしていた甲賀地方へも通じます。そういった意味で街道を抑える重要な場所であり、六角氏が戦国大名として存在するためには不可欠だった城ということになりますね。
南近江に勢力を張った名族【六角氏】
まず観音寺城の歴史を語る前に、城主だった六角氏とはどのような武家だったのでしょうか。
六角氏は近江源氏として名高い佐々木流から発祥しました。平安時代中期の貴族だった源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄を領して居住して姓を【佐々木】と改めました。やがてその子孫は源平の戦いでは当初から源氏に味方し、鎌倉時代には守護・地頭に任じられて大きな勢力を得ることになったのです。
後鳥羽上皇が起こした承久の乱で、多くの佐々木一族は上皇方についたために没落しますが、その中で佐々木信綱だけは鎌倉幕府方に味方し、佐々木氏の主流となりました。信綱には息子が4人おり、そのうち四男の氏信は北近江の所領と京都京極にあった館を与えれられて京極氏の祖となり、三男泰綱は南近江の所領と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗りました。
形式上は六角氏が本家、京極氏が分家という関係になるのですが、室町時代になると佐々木(京極)導誉などが台頭したおかげで京極氏の下風に置かれることになった六角氏。その遺恨は後に近江をめぐる権力争いの中でも如実に表れてくるのです。
足利将軍の征伐を受ける六角氏
時代は下って1467年に起こった応仁の乱で、当主六角高頼は西軍に味方して東軍の京極持清と抗争を繰り返すことになりました。相手は何といっても分家の京極。ここで本家の力を見せつけておかねば示しがつきません。
しかし当時の京極氏といえば幕府四職家の一つ。飛騨・出雲・隠岐から大軍を差し向けて六角氏を圧倒します。やがて京極氏は六角氏に成り代わって近江の守護職に任じられることになり、六角高頼の立場も危うくなりました。
ところが運は高頼に味方します。持清が急死し、家督争いで京極家中が分裂してしまったのです。やがて応仁の乱が終わる頃には京極氏の混乱をよそに近江での覇権を確立し、その基盤を盤石なものにしました。
しかし高頼の腹の虫は収まりません。ライバルの京極氏に近江守護職を与えようとした幕府に何とか仕返ししてやろうと画策したのです。そこで幕府直属の奉公衆らの領地を勝手に横領し、再三の幕府の咎めにも応じず無視を突き通すという挙に出ました。
ついに時の将軍足利義尚は六角氏征伐を決意。将軍自ら陣頭に立って南近江へ進軍してきたのでした。この頃にはすでに観音寺城は完成していましたが、高頼はなぜか城を放棄。甲賀の山中深くへ立て籠ります。実は高頼には勝算がありました。山深く小さな城塞群が多い甲賀の地理を生かそうとしたのです。やってきた幕府軍をゲリラ戦で悩ませ、その神出鬼没な作戦ぶりは【甲賀忍者】の伝説を生んだといわれていますね。
この【鈎(まがり)の陣】という将軍親征が長期化したため、やがて将軍義尚は病没。さらに次の将軍足利義材からの攻勢も受けますが、この時も甲賀へ移って大軍を退けています。
六角氏は大規模な攻勢を受けるたびに甲賀へ逃れ、ほとぼりが冷めるとまた観音寺城へ帰還するということを繰り返していたのです。
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幕府の権力争いに介入するも衰退の道をたどる
当主高頼の死後、息子の定頼が家督を継承しました。この定頼の代に六角氏は全盛期を迎えたといえるでしょう。幕府内の権力争いに介入し、足利義晴や細川高国、細川晴元などがこぞって定頼を頼りにしました。政争に敗れた彼らは六角氏の武力を当てにし、逃亡先の近江から京都への復権を目論んだのです。
ところがこの定頼という人は不思議な人物で、彼自身は幕府政治にほとんど介入することもなく、重要な職責に就くこともなく、所領を増やすことすらしませんでした。もしかしたら綻びが見え始めた足利幕府の屋台骨を支えねばと彼なりに考えていたのでしょうか。しかし内政にかけての手腕は抜群で、観音寺城へ権力を集中させ、城下の発展に尽くし、楽市楽座も彼が始めたものだとされています。
1552年に定頼が亡くなると、跡を継いだのは嫡男の承禎(義賢)でした。ところが北近江の浅井氏をいったんは屈服させるものの、若き浅井長政の離反を許してしまいます。1560年の野良田合戦では倍以上の兵力があったにも関わらず大敗を喫して醜態を晒してしまいました。これが六角氏衰退の端緒となったのです。
そのような中、承禎の嫡男義治が重臣の後藤但馬守を謀殺するという事件が起きました。このため六角氏重臣たちの信頼を失い、彼らの多くは浅井氏に通じたといいます。この【観音寺騒動】という事件の結果、何とか事態は収まるものの六角氏の実力と声望は地に堕ち、やがて織田信長の侵攻を招くことになるのでした。
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信長に抵抗して没落
完全に弱体化した六角氏に昔日の勢いはありませんでした。1568年、織田信長が上洛の軍を起こすと承禎の元にも従軍要請が届きます。しかし六角氏はすでに畿内の三好三人衆と通じており、しかも織田陣営には憎き浅井長政が参加しているではありませんか。承禎にとって拒絶の道しかありませんでした。
織田軍は5万という大軍。六角勢は観音寺城はじめ多くの支城に兵を配置しますが、箕作城、和田山城がわずか1日にも保たずに陥落すると、承禎父子は恐れをなして甲賀へ逃亡。観音寺城は無血で織田方の手に堕ちました。
失った所領を回復するべく、浅井や朝倉、本願寺などの勢力と連携して信長を苦しめますが、結局は観音寺城を回復することなく甲賀に逼塞し、時代に取り残されたかのように没落していくのです。
その後、承禎父子は豊臣政権内で足利義昭らと共に御伽衆となって命脈を保ちました。また子孫は江戸時代に入ると幕府旗本として存続しています。
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観音寺城のココを見てほしい!見どころポイントをご紹介
観音寺城は六角氏の本拠地だけあって、数百もの曲輪(家臣や兵たちを配置した削平地)が存在しています。家臣たちの屋敷跡も数多くありますから、その様子はまるで宅地造成地のように映るかも知れません。その中でもぜひ見て頂きたい見どころポイントをいくつかご紹介していきますね。